鎌倉幕府二代執権を務めた北条義時は、北条時政の次男で源頼朝の妻北条政子の同母弟です。
政子・義時の母は定かではありませんが、伊東祐親の娘という説もあります。
頼朝の亡き後の義時は、
父時政とともに二代将軍源頼家の独裁を停止させ(十三人の合議制)、梶原景時の変、比企の乱、将軍頼家の追放(参考:修禅寺)、畠山重忠の乱を通じて有力御家人を排斥していきました。
畠山重忠の乱後は父時政を追放し、政所別当となって幕府の実権を握ります。
そして、和田合戦で和田義盛と一族を滅亡させた後は、侍所別当をも兼ね、北条執権体制の基礎を築きました。
覚園寺は、義時の建てた大倉薬師堂を前身としています。
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1219年(承久元年)三代将軍源実朝が暗殺され、1221年(承久3年)には、後鳥羽上皇の討幕計画によって朝敵とされますが、義時は見事に幕府の危機を脱しています(承久の乱)。
後年、室町幕府を開いた足利尊氏が制定した『建武式目』の冒頭には、
「なかんづく鎌倉郡は、文治に右幕下はじめて武館を構え、承久に義時朝臣天下を併呑す。」
と記されています。
~義時の死~
頼朝の興した武家政権を拡大・発展させた義時でしたが、1224年(元仁元年)6月12日突如発病し、翌日亡くなっています。
『吾妻鏡』には、「念仏を唱えつつ順次往生をとげた」と記されていますが、古くから近習の小侍に刺し殺されたという説もあったようです。
平成17年の発掘調査によって、義時の法華堂跡の可能性が高いと考えられています。
『吾妻鏡』には、「故右大将家法華堂の東の山上をもって墳墓となす」と記されています。
~義時は毒殺されたのか・・・~
(伊賀氏の変)
義時の死後すぐに起こった事件が「伊賀氏の変」です。
義時の後継者は誰もが嫡男の泰時であると考えていたところですが、
義時の後妻伊賀氏が兄伊賀光宗とはかって、実子の政村を執権に、娘婿の一条実雅を将軍に据えようとする陰謀が発覚します。
この陰謀には三浦義村もかかわっていました。
しかし、北条政子が義村を説得したことにより陰謀は失敗に終わり、伊賀氏、光宗、実雅は流罪に処せられて落着しています。
さて、義時は、「後妻伊賀氏に毒殺された」という説があります。
藤原定家の日記によると・・・
承久の乱の首謀者の一人で、乱後姿をくらましていた尊長が3年後に捕まりました。
六波羅探題に引き立てられた尊長は、
「早く首を切れ。さもなければ、義時の妻が義時に飲ませた薬で早く俺を殺せ」
と叫んで武士たちを驚かせたといいます。
「義時の妻」というのはもちろん伊賀氏のことで、伊賀氏が将軍に据えようと考えた娘婿の一条実雅は尊長の実弟だったといいます。
尊長は、実雅から義時毒殺の秘密を聞いていたとも考えられます・・・。
それとも、尊長も伊賀氏の陰謀事件に関わっていたのでしょうか・・・?
📎伊賀氏の変
昔から義時の「やぐら」と伝えられてきました。
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2022年の大河は北条義時