別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年5月20日金曜日

源氏の繁栄・衰退・再興・滅亡


鎌倉幕府を開いた源頼朝は、「清和源氏」の一流の「河内源氏」です。

「清和源氏」とは、清和天皇の皇胤が「源」姓を賜ったことからはじまる氏族です。

そのなかでも、貞純親王の子経基の子孫が栄えました。



~河内源氏の祖源頼信~

「河内源氏」は、東国の武士団を支配下に置き、河内国を本拠とした源頼信を祖としています。

頼信が1028年(長元元年)に起こった平忠常の乱を平定したことにより、「河内源氏」が東国に勢力を持つようになります。



~源頼義~

頼信の子頼義が、平直方から鎌倉の屋敷を譲り受けたことにより、鎌倉は東国支配の拠点となりました。


元八幡(由比若宮)
1063年(康平5年)、源頼義による創建です。
前九年の役の勝利に感謝するために石清水八幡宮を勧請したといいます。


鎌倉時代に執権の地位を世襲した北条氏は、平直方の子孫と称していたといいます。

頼義は、直方の娘を娶り、この2人からは義家義光が生まれています。



~源義家~

頼義の子義家は、石清水八幡宮で元服したことから「八幡太郎」と呼ばれました。

鎌倉の中心部にある源氏山は、義家が後三年の役へ出陣する際、この山に源氏の白旗を掲げたことからそう呼ばれるようにになったと伝えられています。


甘縄神明神社
平直方の娘と結婚した源頼義は、
この神社に祈願して子の義家を授かったと伝えられています。



~源氏の衰退~

義家の長子義親は反乱を起こし隠岐に流され、義家を継いだ四男義忠が暗殺されるなど、一族間の争いもあって源氏は衰退します。

暗殺された義忠の跡は、義親の子為義が継ぎます。



~源義朝~

為義の子義朝は京で生まれますが、幼少期に東国に下向し、上総氏の庇護を受けて成長したといわれています。

そのため「上総御曹司」と呼ばれていたそうです。

一説には、為義の嫡子ではなかったともいわれていますが定かではありません。

東国で勢力を伸ばした義朝は、1143年(康治元年)には相馬御厨を、1144年(天養元年)には大庭御厨の支配権問題に介入し、さらに勢力を伸ばします。

※相馬御厨は、千葉氏が伊勢神宮に寄進した荘園。
※大庭御厨は、鎌倉権五郎景政が伊勢神宮に寄進した荘園。

その後、どのような経緯があったのかわかりませんが、相馬御厨を治めていた千葉常胤も大庭御厨を治めていた大庭景義も義朝の傘下に入っています。

また、この頃、三浦義明も義朝の傘下にありました。

1155年(久寿2年)には、長子義平に、東国に勢力を伸ばしてきた弟義賢を討たせています(大蔵合戦)。

義賢は父為義の命によって義朝に対抗するために東国へ派遣されたといわれています。

義賢の子は、のちに源頼朝に討たれることとなる木曽義仲です。


光照寺(逗子市)
義朝の長子で「悪源太」と呼ばれた義平の菩提寺とされています。
義平の母は三浦義明の娘ともいわれますが定かではありません。


1156年(保元元年)に起こった保元の乱では、父為義と子義朝が対立し、為義は義朝によって殺されています。


壽福寺
源義朝の旧跡地に建てられた寺です。
義朝は鎌倉を拠点として活動し、亀ヶ谷に屋敷を構えていたといいます。
沼浜(現在の逗子市)にも屋敷がありました(参考:法勝寺)。

六角ノ井
保元の乱で捕らえられた源為朝の伝説が残されている井戸です。
為朝は義朝の弟で、保元の乱では父為義方に付きました。
「無双の弓矢の達者」と呼ばれ剛の武者として知られています。


1159年(平治元年)、平治の乱が起こります。

平清盛に敗れた義朝は、東国に逃れる途中、家臣の長田忠致の裏切りに遭い最期を遂げました。

従っていた子頼朝は、捕らえられ伊豆蛭ヶ小島に流されています。



~源頼朝~

源氏と平氏の戦いをよく「源平合戦」といいますが、1180年(治承4年)から1185年(元暦2年)までの内乱を「治承・寿永の乱」と呼びます。

1180年(治承4年)、後白河法皇の皇子以仁王が全国の源氏に平氏追討の令旨を発し挙兵します。頼朝もその令旨によって挙兵しました。

甲斐の武田信義や信濃の木曽義仲なども挙兵しています。


1180年(治承4年)8月17日、伊豆蛭ヶ小島に流されていた源頼朝が源氏再興の挙兵をします。

石橋山の合戦では大庭景親に敗れたものの、海路安房に渡り、千葉常胤上総介広常などを従え、その年の10月には鎌倉に入ります。


鶴岡八幡宮
1180年(治承4年)、
源頼朝は先祖頼義の建てた由比若宮を現在の地に遷座します。
武家の都「鎌倉」は、鶴岡八幡宮を中心に整備されていきます。


鎌倉は、平直方が屋敷を構え、源頼義がそれを譲り受けたことで河内源氏にとってはゆかりの地となりました。

頼朝はその鎌倉を本拠地とすることになります。

それを進言したのは千葉常胤だったといわれています。

1180年(治承4年)、鎌倉に入った頼朝は、富士川の合戦で勝利し、佐竹討伐を行った後、東国の整備に力を注ぎます。

大倉の新邸には侍所が設置され和田義盛が別当に就任しました。

1182年(寿永元年)、嫡子頼家が誕生します。妻北条政子の安産祈願のために造営されたのが若宮大路であり段葛であるといわれています。

1183年(寿永2年)、東海・東山両道における頼朝の支配権が認められたことにより(寿永二年十月宣旨)、これまで反乱軍として扱われていた鎌倉軍は、朝廷から認められる軍となりました。

翌年には、京の木曽義仲を追討し、一ノ谷の合戦で平氏を破ります。

1184年(元暦元年)、御所に公文所(別当:大江広元(のちの政所))と問注所(執事:三善康信)が設置されたことにより、軍事、行政、裁判の3つの機関が整いました。

1185年(文治元年)、屋島の合戦で平氏を破り、壇ノ浦の合戦では平氏を滅亡させます。


勝長寿院跡
頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院でした。
奈良から仏師成朝が招かれ阿弥陀三尊像を造立し、
藤原為久が壁画を描いたといいます。


1189年(文治5年)、奥州の藤原泰衡を攻め、四代にわたって繁栄を極めた奥州藤原氏を滅亡させました。

これより前、頼朝の弟義経が泰衡に攻められ衣川の館で自刃しています。


永福寺跡
平泉の中尊寺大長寿院を模して創建された寺院でした。
義経や奥州藤原氏の鎮魂のため建立したともいわれています。


1190年(建久元年)、上洛を果たした頼朝は、権大納言・右近衛大将に任じられます。

これによって、正式に政所が設置されています(別当:大江広元)。

1192年(建久3年)、征夷大将軍に任じられました。

これまでは、ここが鎌倉幕府の成立の時期といわれてきましたが、現在では様々な説があるようです。

この年、次男実朝が誕生しています。

1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列しています。娘大姫を伴ったものでしたが、大姫を入内させるためだったといわれています(参考:岩船地蔵堂)。

1198年(建久9年)、相模川の橋供養に出掛けた頼朝は、その帰路落馬し、それが原因となって翌年正月13日に亡くなくなったと伝えられています。53歳でした。


源頼朝の墓
頼朝の御所(大倉幕府)のあった裏山(大倉山)の中腹に建てられています。



~源氏の滅亡~

源頼朝の亡き後、嫡子頼家が家督を継ぎますが、頼家の保護者の一人梶原景時が鎌倉を追放され、駿河国で最期を遂げました。

頼朝が亡くなってから一年目の出来事です(参考:梶原景時の変)。

1203年(建仁3年)、頼家の外戚として権力を伸ばしつつあった比企能員が北条時政に暗殺され、頼家の嫡子一幡も滅ぼされました(参考:比企の乱)。

頼家は、修禅寺に流され、翌年、暗殺されています。

比企の乱の後、北条時政大江広元と並んで政所の別当に就任しています。


一幡の袖塚(妙本寺)
比企ヶ谷にあった比企邸は、北条義時らによって攻められ、
小御所と呼ばれた一幡の館も焼かれました。
焼け跡から発見された一幡の袖が葬られているといいます。


頼家のあとは、弟の実朝が継ぎますが、その実権は北条氏に握られていました。

1205年(元久2年)、畠山重忠北条時政の陰謀によって、武蔵国二俣川で討死しました。

子の重保も由比ヶ浜三浦義村によって討ち取られています(参考:畠山重忠の乱)。


畠山重保の墓
鶴岡八幡宮一の鳥居の傍らには、
畠山重忠の子重保の宝篋院塔が建てられています。


畠山重忠の乱後、北条時政の後妻牧の方による陰謀も発覚し、時政は鎌倉を追放されています。

時政に代わって北条義時が政所別当に就任しています。

1213年(建保13年)、侍所別当の和田義盛が滅ぼされました(参考:和田合戦)。

和田合戦後、北条義時は政所別当と侍所別当を兼ねています。

頼朝以来の御家人が次々に滅ぼされる中、実朝は和歌にふけり、官位昇進を望み、渡宋まで計画しています(参考:金槐和歌集 歌人として名を残した源実朝 宋に憧れた源実朝)。

そして、源氏滅亡の時が来ました。

1219年(承久元年)、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式が終了した直後、実朝は甥の公暁によって殺害されました(参考:源実朝の暗殺)。

実朝を殺害した公暁も三浦義村のところへ向かう途中で討ち取られています。

この事件で、源氏の世は頼朝頼家実朝の三代で終わりを告げます。


源実朝墓(壽福寺)
写真は壽福寺にある実朝のものといわれる五輪塔ですが、
実朝勝長寿院に葬られたといわれています。
この他、秦野市には、実朝の首塚があります。


鎌倉手帳


よりともジャパン.com