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鎌倉検定過去問~鎌倉権五郎景政の大庭御厨と源義朝の鎌倉之楯

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1144年(天養元)〔   〕は〔   〕が寄進したという〔   〕の荘園である大庭御厨へ侵入した。当時〔   〕は現在の〔   〕付近にあったとされる「鎌倉之楯」を拠点に東国で活動していた。 源頼朝が鎌倉の地に新邸を造営しようとしたとき,当初の候補地だったが,土地が狭く造営を断念したとされる父源義朝の館「鎌倉之楯」は,今のどこ付近と考えられるか。 現在の壽福寺付近にあったとされる「鎌倉之楯」を拠点に東国で活動していた 〔   〕は,現在の藤沢・茅ヶ崎市一帯にあたる〔   〕御厨に再三侵入したという。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1104年(長治元年)頃に成立したという 大庭御厨 は、現在の藤沢市から茅ヶ崎市にまたがる相模国最大の寄進地系荘園。 鎌倉権五郎景政 が先祖から受け継いだという大庭荘を開発したもので、『吾妻鏡』によると、1117年(永久5年)10月23日に伊勢神宮に寄進されました。 1144年(天養元年)には、 源義朝 が 大庭御厨 の鵠沼郷に侵入し、大規模な収奪を行ったことでも知られています。 当時の大庭御厨の下司(管理者)は大庭景宗だったのだと伝えられています。 ※景宗は、大庭景義・景親・景久兄弟の父。 ※大庭氏については、 景政 の子景継が大庭御厨を領したことから「大庭氏」を名乗ったという説もありますが、詳細は不明です。 皇大神宮 (藤沢市) 皇大神宮 は、 大庭御厨 の総鎮守として崇敬を集めた社。 壽福寺 義朝 の鎌倉之楯は亀谷( 壽福寺 付近)にあったといわれています。 1180年(治承4年)10月6日、先鋒を 畠山重忠 、殿(しんがり)を 千葉常胤 がつとめた 源頼朝 の軍が相模国に入ります。 翌日、鎌倉に入った頼朝は、鶴岡八幡宮( 由比若宮 )を遙拝し、父 義朝 の旧跡を訪れています。 鎌倉七口 の一つ 亀ヶ谷坂 は、鎌倉入りの際に使った道と伝えられます。

紫式部の先祖:藤原高藤・宮道列子と源氏物語

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藤原高藤は平安時代前期の公卿。 妻の宮道列子は中下級貴族の宮道弥益の娘。 紫式部 は、この二人の子孫にあたります。 左大臣 源雅信 の正妻 藤原穆子 ( 倫子 の母)や紫式部の夫 藤原宣孝 も子孫。 『源氏物語』 ~明石の巻~では、 光源氏 と 明石入道 の娘 明石の君 との恋が描かれていますが、高藤と列子の恋を参考に描かれたといわれています。 『今昔物語集』によると・・・ ある時、南山科へ鷹狩に出かけた高藤は、突然の雨にあい、宮道弥益の屋敷で雨宿り。 弥益邸に一泊することとなった高藤は、弥益の娘・列子に一目ぼれし、一夜の契りを結びます。 しかし・・・ 翌日、鷹狩から帰えると、心配して待っていた父・藤原良門に激怒され、鷹狩を禁じられてしまいます。 高藤と列子は会うことも連絡をとることもできずに月日が流れました。 やがて父も亡くなり、6年後になって弥益の屋敷を訪れると・・・ 列子は高藤の子(女の子)を産んでいました。 心打たれた高藤は列子と結婚し、自分の屋敷に連れて帰ったのだとか・・・ 列子が産んだ女の子は、のちに醍醐天皇の母となる胤子。 『源氏物語』 ~明石の巻~では・・・ 光源氏 を明石に迎えた 明石入道 は、娘の 明石の君 を光源氏に引き合わせます。 やがて明石の君は懐妊。 しかし、光源氏は都へ戻ることに。 その後、 明石の君 と生まれた子( 明石の姫君 )は 光源氏 に誘われて上京。 明石の姫君は 紫の上 の養女となって育てられ、11歳の時に裳着を行い、東宮(のちの今上帝)に入内。 13歳で懐妊し、第一皇子を出産しました。 どちらの話も中下流階級の娘が貴公子の娘を産み、その娘が出世するというもの。 勧修寺宸殿   勧修寺 は、醍醐天皇が母の藤原胤子の菩提を弔うため、宮道弥益の邸宅跡に創建させた寺。 寺名は、高藤の諡号からのもの。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源氏物語を書き始めた紫式部

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源氏の間 (石山寺) 『石山寺縁起絵巻』によると・・・ 1004年(寛弘元年)、 石山寺 に参籠したという 紫式部 。 8月15日、中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見て 『源氏物語』 を書き始めたのだと伝えられています。 石山寺 で書かれたのは 「須磨・明石の巻」 だったのだとか。 須磨は、 『源氏物語』 の主人公・ 光源氏 のモデルのひとりとされる在原行平が蟄居した地。 『源氏物語』 は、1004年(寛弘元年)以前に書き始められたという説もありますが・・・ いずれにしても 紫式部 は、『源氏物語』がきっかけで 藤原道長 に召し出され、 一条天皇 の中宮・ 藤原彰子 に仕えることとなります。 紫式部公園歌碑 越前市の 紫式部公園 には、紫式部が中宮・ 藤原彰子 に仕えるようになったときに詠んだ 「身のうさは 心のうちに したひきて いま九重に 思ひみだるる」 の 歌碑 が建てられています。 石山寺 石山寺 は、聖武天皇の勅願によって 東大寺 の 良弁 が開いた観音霊場。 藤原道綱母 の『蜻蛉日記』・ 赤染衛門 の『赤染衛門集』・ 和泉式部 は『和泉式部日記』・ 菅原孝標女 の『更級日記』にも登場します。 清少納言 は『枕草子』に「寺は石山寺・仏は如意輪観音」と綴りました。 大河ドラマ館 明王院には 「光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館」 が設置されています。 源氏物語 恋するもののあはれ展 世尊院では 「源氏物語 恋するもののあはれ展」 が開催されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源明子が住んだ高松殿~高松神明神社~

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高松神明神社 は、 源明子 の父・源高明が御殿の高松殿の鎮守として伊勢神宮を勧請した社。 藤原道長 と結婚した 明子 は、ここに住んで高松殿と呼ばれていました。 高松殿は 三条天皇 の皇子・小一条院(敦明親王)の御所ともなりますが・・・ 伝説によると・・・ 左大臣・ 藤原顕光 の次女で 三条天皇 の第一皇子・敦明親王の妃となった藤原延子は、敦明親王とともに 堀河殿 に住んでいました。 しかし・・・ 敦明親王は、 藤原道長 が三女の 寛子 を嫁がせると 堀河殿 を出て 高松殿 へ移ってしまいます。 延子は、悲嘆のあまりに病に伏し、1019年(寛仁3年)に亡くなってしまいました。 2年後の1021年(治安元年)には、 藤原顕光 が薨去。 二人の死後に起こったのが 道長 の娘たちの死。 1025年(万寿2年)、延子から敦明親王を奪った 藤原寛子 が病死。 同年、六女で敦良親王(のちの 後朱雀天皇 )の妃・ 藤原嬉子 が出産直後に急死。 敦良親王は、敦明親王が東宮(皇太子)を辞退したことで、東宮となっていました。 1027年(万寿4年)、次女で 三条天皇 の中宮だった 藤原妍子 が崩御。 道長の娘たちの死は、顕光と延子の怨霊の祟りと恐れられたのだといいます。 高松神明神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆