藤原高藤は平安時代前期の公卿。
妻の宮道列子は中下級貴族の宮道弥益の娘。
紫式部は、この二人の子孫にあたります。
左大臣源雅信の正妻藤原穆子(倫子の母)や紫式部の夫藤原宣孝も子孫。
『源氏物語』~明石の巻~では、光源氏と明石入道の娘明石の君との恋が描かれていますが、高藤と列子の恋を参考に描かれたといわれています。
『今昔物語集』によると・・・
ある時、南山科へ鷹狩に出かけた高藤は、突然の雨にあい、宮道弥益の屋敷で雨宿り。
弥益邸に一泊することとなった高藤は、弥益の娘・列子に一目ぼれし、一夜の契りを結びます。
しかし・・・
翌日、鷹狩から帰えると、心配して待っていた父・藤原良門に激怒され、鷹狩を禁じられてしまいます。
高藤と列子は会うことも連絡をとることもできずに月日が流れました。
やがて父も亡くなり、6年後になって弥益の屋敷を訪れると・・・
列子は高藤の子(女の子)を産んでいました。
心打たれた高藤は列子と結婚し、自分の屋敷に連れて帰ったのだとか・・・
列子が産んだ女の子は、のちに醍醐天皇の母となる胤子。
『源氏物語』~明石の巻~では・・・
光源氏を明石に迎えた明石入道は、娘の明石の君を光源氏に引き合わせます。
やがて明石の君は懐妊。
しかし、光源氏は都へ戻ることに。
その後、明石の君と生まれた子(明石の姫君)は光源氏に誘われて上京。
明石の姫君は紫の上の養女となって育てられ、11歳の時に裳着を行い、東宮(のちの今上帝)に入内。
13歳で懐妊し、第一皇子を出産しました。
どちらの話も中下流階級の娘が貴公子の娘を産み、その娘が出世するというもの。
寺名は、高藤の諡号からのもの。
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