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於大の方と千姫の墓がある伝通院

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伝通院 は、1602年(慶長7年)、 伏見城 で死去した 徳川家康 の生母・ 於大の方 が葬られた寺。 家康 は 増上寺 に葬りたかったようですが、増上寺十二世の源誉存応(慈昌・観智国師)が 増上寺 を開いた酉誉聖聡の師である聖冏ゆかりの地に新たな寺を建立するよう進言したのだといいます。 聖冏(酉蓮社了誉(ゆうれんじゃりょうよ))は浄土宗第七祖。 浄土宗第八祖の酉誉聖聡は千葉氏胤の子で、母は 新田義貞 の娘と伝えられています。 そして、 家康 は、新田氏を祖とする源氏を称していました。 於大の方の墓 伝通院 には、三代将軍家光の次男亀松や二代将軍秀忠の娘で豊臣秀頼の正室となった 千姫 も葬られています。 千姫の墓 伝通院

紫式部の歌~春なれど・・・越前武生~

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「春なれど 白嶺の深雪 いや積り 解くべきほどの いつとなきかな」 越前国 へ下向した 紫式部 に 「年が明けたら唐人を見にそちらへ参ります」 言っていた 藤原宣孝 (のちの夫)が・・・ 年が明けると、 「春になれば氷さえ解けるもの。あなたの心もとけるものだと、どうにか教えてあげたい」 と言ってきたことへの返歌。 「春になりましたが、白山の雪はますます積もって解けるのはいつのことかわかりません」 (春になっても私のあなたに対する気持ちは解けません・・・) 気比の松原 「唐人を見に・・・」 紫式部 が 越前国 に下向した当時、敦賀の松原客館には北宋の商人・朱仁聡が林庭幹・羌世昌(周世昌)らとともに滞在していました。 松原客館があった正確な場所は不明ですが、 気比の松原 付近にあったのではないかといわれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

紫式部の歌~めぐりあひて・・・~

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久々にめぐり会ったと思ったのに・・・ 見たのがあなたかどうかも分からない間に帰ってしまった。 7月10日初秋 紫式部 は、地方から帰京していた幼い頃からの友に偶然に出逢ったのが・・・ はっきりと確認することができないまま、友は早く沈んでしまう初秋の月と競うように帰ってしまったらしい。 蘆山寺歌碑 紫式部の邸跡・ 蘆山寺 には、この歌の 歌碑 が建てられている。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

冷泉院跡~譲位した上皇の御所~

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冷泉院 は、弘仁年間(810-824)に嵯峨天皇の離宮として造営されたことに始まります。 譲位した上皇の後院(譲位した後の御所)として利用されました。 造営当時の名は「冷然院」でしたが、度重なる火災で焼失したため、「冷泉院」と改められたのだとか。 紫式部 の 『源氏物語』 では譲位後の 冷泉帝 の御所。 鈴虫の巻では、 光源氏 が訪問しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

礒崎神社~日本武尊を祀る社と紫式部の歌~

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礒崎神社 は、琵琶湖の東岸の磯の地に鎮座する日本武尊を祀る社。 日本武尊は伊吹山の悪の神を討伐するため出征するが、草薙剣も持たずに出かけたため重傷を負い磯の地で亡くなったのだと伝えられています(諸説ある。)。 「磯がくれ おなじ心に たづぞ鳴く なが思じ出づる 人やたれぞも」 紫式部 が磯を詠んだ歌。 越前国 から帰京する際に詠んだものと考えられています。 礒崎神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆