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北条泰時出陣~承久の乱~

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1221年(承久3年)5月15日、幕府打倒の挙兵をした 後鳥羽上皇 は、 北条義時 追討の 宣旨 を発します。 これに対し、幕府では、 北条政子 が「故右大将( 源頼朝 )の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」と説いて御家人の結束を固めます。 御家人らが参集した会議では、足柄峠と箱根山に関を設けて朝廷軍を迎え撃つという作戦も出されますが、 大江広元 が上洛すべきと主張。 さらに、 北条政子 は「すみやかに上洛せよ」と命じます。 そして・・・ 1221年(承久3年)5月22日早朝、 北条泰時 が18騎で出陣。 何故、たった18騎だったのか? それは、その前日に、こんなやりとりがあったからのようです。 「上洛することを決定してから、日が経ち過ぎたので、いろんな異議が出てくる頃です。 皆の気が変わる前に、総大将の泰時さまが一人でも出陣すれば、関東の御家人は悉く、雲が龍に従うが如く従ってくるでしょう」 と 大江広元 が主張したから。 このことを 政子 が 三善康信 に問うと、 「まず、京へ向けて出陣するべき」 と答えたのだといいます。 それを受けた 義時 は、直ちに 泰時 に出陣するよう命じています。 この夜、泰時は 稲瀬川 の藤沢清親の屋敷に泊まったのだとか。 泰時 の出陣によって、関東の御家人は悉く京へ向けて出発。 その数は19万騎に達したそうです。 『吾妻鏡』より。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

承久の乱で討死した伊賀光季

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『吾妻鏡』によると・・・ 1221年(承久3年)5月14日、 後鳥羽上皇 は、鎌倉幕府と親しくしていた西園寺公経と西園寺実氏を弓場殿に幽閉し、院中に兵を集めます。 京都守護として上洛していた伊賀光季と大江親広も招聘されますが、伊賀光季は応じなかったため、翌日、攻められて討たれてしまいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『北条九代記』によると、 5月14日夕刻、 後鳥羽上皇 は、 藤原秀康 ・ 三浦胤義 ・大江親広・佐々木広綱・佐々木高重らに、招聘に応じなかった伊賀光季を討伐するよう命じます。 院方が攻め込んでくるという情報を得た光季は、家臣に都を脱出するよう進言されますが、討ち死する覚悟を決めます。 そして、14歳の子寿王冠者(光綱)を呼んで、夜のうちに逃げるよう申し付けます。 しかし、光綱は、 「弓矢をとる武士の子が、親が討たれようとしているのに逃げたとすれば、いくら幼いからといっても誰も許してくれないでしょう。 親を見殺しにした臆病者と指さされるのは恥ずかしいことなので、ぜひお供をしたいと存じます。 鎌倉を発って上京したとき母上は『こんどはいつお帰りですか』と尋ねられました。 私は『父上のお供をしてすぐに帰ってきます』と答えました。 これが最後のお別れの言葉となりました」 と言って涙をポロポロと流したのだといいます。 息子の立派な覚悟に光季は、一緒に討ち死にすることを決め、家臣の治部次郎に命じて光綱に武具を着けさせて、討手が攻めてくるのを待ちました。 夜が明けると、 後鳥羽上皇 に命じられた800余騎が光季の宿所を取り囲み、攻撃が開始されました。 光季の家臣たちはよく防戦しましたが、皆討死。 邸に火をかけられた光季と光綱は「今はこれまで」と言って、腹をかき切って燃え盛る火の中へ飛び込んだのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 伊賀光季は、伊賀氏の祖伊賀朝光の子。 母は、 源頼朝 に仕えた文官・ 二階堂行政 の娘。 北条義時 の後妻(継室)伊賀の方の弟。 1219年(建保7年)2月14日、京都守護として上洛。 『北条九代記』は、 「鎌倉幕府の代官として京都を守護していた光季は、世間の信望とその威光に肩を並べるものな栄えていたが、たちまちにして滅亡して、忠義の道

名超寺と後鳥羽神社~後鳥羽上皇が北条義時討滅を祈祷した地~

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名超寺 名超寺 (みょうちょうじ)は、天台密教の道場として創建された寺。 1220年(承久2年)、 後鳥羽上皇 は密かに行幸し、 北条義時 追討のための祈祷を修したのだと伝えられています。 後鳥羽神社 名超寺 に隣接する 後鳥羽神社 は、 後鳥羽上皇 の尊像が安置されていた後鳥羽殿が始まり。 1879年(明治12年)に再建され後鳥羽神社と称されるようになりました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

旧一条恵観山荘「紅葉の小径」2022/12/07

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