別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


検索




2022年12月14日水曜日

北条泰時出陣~承久の乱~




1221年(承久3年)5月15日、幕府打倒の挙兵をした後鳥羽上皇は、北条義時追討の宣旨を発します。

これに対し、幕府では、北条政子が「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」と説いて御家人の結束を固めます。

御家人らが参集した会議では、足柄峠と箱根山に関を設けて朝廷軍を迎え撃つという作戦も出されますが、大江広元が上洛すべきと主張。

さらに、北条政子は「すみやかに上洛せよ」と命じます。


そして・・・

1221年(承久3年)5月22日早朝、北条泰時が18騎で出陣。

何故、たった18騎だったのか?

それは、その前日に、こんなやりとりがあったからのようです。

「上洛することを決定してから、日が経ち過ぎたので、いろんな異議が出てくる頃です。

皆の気が変わる前に、総大将の泰時さまが一人でも出陣すれば、関東の御家人は悉く、雲が龍に従うが如く従ってくるでしょう」

大江広元が主張したから。

このことを政子三善康信に問うと、

「まず、京へ向けて出陣するべき」

と答えたのだといいます。


それを受けた義時は、直ちに泰時に出陣するよう命じています。

この夜、泰時は稲瀬川の藤沢清親の屋敷に泊まったのだとか。


泰時の出陣によって、関東の御家人は悉く京へ向けて出発。

その数は19万騎に達したそうです。


『吾妻鏡』より。




承久の乱

北条政子の言葉~承久の乱~

宇治川の戦い~承久の乱~


瀬田の合戦~承久の乱~








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人

二代執権北条義時


北条泰時

北条時房


後鳥羽上皇


北条義時の最期

北条政子の最期


よりともジャパン.com


検索

Translate