1219年(建保7年)1月27日、 鶴岡八幡宮 では 源実朝 の右大臣拝賀式が行われました。 この日は晴れていましたが夕刻になって雪となり7,80㎝積もったそうです。 『吾妻鏡』によると・・・ 大江広元は 実朝 に、 「私は成人してから涙を浮かべたことがありませんでした。 しかし今、涙を止めることができません。 これはただ事ではありませんので、何か起こるかもしれません。 東大寺供養の際の頼朝様の例にならって、 束帯の下に腹巻(鎧)を着けていかれるとよいでしょう」 と言いました。 しかし、源仲章は 「大臣大将にまで昇った人で、未だそのような式に出た人はありません」 といって止めたのだといいます。 実朝 の髪を梳かしていた宮内公氏は、一筋の髪の毛を記念にもらったそうです。 そして、庭の梅の木を見た 実朝 は、 「出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ」 (主人のいない家になってしまうが、花を咲かせることを忘れるな)と詠んだのだそうです。 源実朝 は午後6時頃、雪の中を 鶴岡八幡宮 へと出発します。 南門を出るときには霊鳩が鳴きさえずっていたといいます(源氏にとって鳩は特別な鳥です。)。 車から降りるときには、刀を折ってしまったそうです。 参拝を終えた 実朝 が石段の上にさしかかると、甥で 鶴岡八幡宮 の別当だった 公暁 が襲いかかります。 「父の敵を討った」という名乗りをあげたのを聞いた者がいるともいいます。 石段下にいた御家人がすぐに駆けつけますが、すでに 公暁 の姿はありませんでした。 実朝 の首を取った公暁は、後見人の備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に行き、食事の間も 実朝 の首を放さなかったといいます。 そして、公暁の乳母子弥源太を 三浦義村 邸に遣わし、 「今、将軍の席が空いた。 次は自分が将軍となる順番だから、 早く方策を考えよ」 と指示しています。 これに対し、 義村 は、「すぐに屋敷に来る」よう伝える一方で、 北条義時 に連絡をとっています。 義時 から公暁を殺すよう命ぜられた 義村 は、長尾定景を差し向けます。 山越えをして義村邸に向かっていた公暁は、定景によって討ち取られ、首は義時邸に運ばれたということです。 公暁がどこに葬られたのかは不明です