別冊『鎌倉手帳』

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2016年1月27日水曜日

右大臣拝賀の日・・・暗殺された源実朝

1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮では源実朝の右大臣拝賀式が行われました。

この日は晴れていましたが夕刻になって雪となり7,80㎝積もったそうです。




『吾妻鏡』によると・・・

大江広元は実朝に、「私は成人してから涙を浮かべたことがありませんでした。しかし今、涙を止めることができません。これはただ事ではありませんので、何か起こるかもしれません。東大寺供養の際の頼朝様の例にならって、束帯の下に腹巻(鎧)を着けていかれるとよいでしょう」と言いました。

しかし、源仲章は「大臣大将にまで昇った人で、未だそのような式に出た人はありません」といって止めたのだといいます。


実朝の髪を梳かしていた宮内公氏は、一筋の髪の毛を記念にもらったそうです。

そして、庭の梅の木を見た実朝は、「出テイナハ主ナキ宿ト成ヌトモ軒端ノ梅ヨ春ヲワスルナ」(主人のいない家になってしまうが、花を咲かせることを忘れるな)と詠んだのだそうです。




実朝は午後6時頃、雪の中を鶴岡八幡宮へと出発します。

南門を出るときには霊鳩が鳴きさえずっていたといいます(源氏にとって鳩は特別な鳥です。)。

車から降りるときには、刀を折ってしまったそうです。




参拝を終えた実朝が石段の上にさしかかると、甥で鶴岡八幡宮の別当だった公暁が襲いかかります。

「父の敵を討った」という名乗りをあげたのを聞いた者がいるともいいます。

石段下にいた御家人がすぐに駆けつけますが、すでに公暁の姿はありませんでした。


実朝の首を取った公暁は、後見人の備中阿闍梨の雪ノ下北谷の家に行き、食事の間も実朝の首を放さなかったといいます。

そして、公暁の乳母子弥源太を三浦義村邸に遣わし、「今、将軍の席が空いた。次は自分が将軍となる順番だから、早く方策を考えよ」と指示しています。


これに対し、義村は、「すぐに屋敷に来る」よう伝える一方で、北条義時に連絡をとっています。

義時から公暁を殺すよう命ぜられた義村は、長尾定景を差し向けます。

山越えをして義村邸に向かっていた公暁は、定景によって討ち取られ、首は義時邸に運ばれたということです。


公暁がどこに葬られたのかは不明です。

また、公暁が持っていた実朝の首の行方も定かではありません。




翌日、実朝の亡骸は勝長寿院に葬られました。

がないので代わりに髪の毛が棺に納められたのだといいます。




(秦野市)

秦野市には実朝の首が埋葬されたという場所があります。

公暁が持ち去った実朝の首は、三浦義村の家臣武常晴が拾い上げ、波多野氏を頼ってこの地に葬ったと伝えられています。



実朝の妻・坊門信子邸は壽福寺で出家し、京へ戻って実朝の菩提を弔うために大通寺を創建しました。



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