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畠山重保の墓

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鶴岡八幡宮 の 一の鳥居 の横にある大きな宝篋印塔は、 畠山重保の墓 と伝えられています。 石造宝篋印塔 高さ3.4メートルを超えるもので、塔の基礎に「明徳第四 癸酉霜月三 日大願主 比丘道友」と刻銘があることから、明徳4年=1393年の造立と考えられている石塔です。 鎌倉市の有形文化財に指定されています。 畠山重保は、 源頼朝 の下で活躍した 畠山重忠 の嫡子。 1205年(元久2年)6月22日早朝、 北条時政 の謀略により、 由比ヶ浜 で 三浦義村 の手の者に討たれてしまいます。 この日、父重忠も 北条義時 らに攻められ 二俣川 で討死にしています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 畠山重保の屋敷は 鶴岡八幡宮 の 一の鳥居 の付近にあったのだと伝わっています。 重保の 宝篋印塔 は、咳で苦しむ人が願をかけると咳の病気が治るといわれ、「六郎さま」として親しまれてきました。 六郎茶屋という茶屋まで置かれていたといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

大江広元の館跡という噂!八王子市:廣園寺

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廣園寺 (こうえんじ)は、1389年(康応元年)に創建された臨済宗 南禅寺 派の寺院。 創建者は 大江広元 の子孫大江師親。 1213年(建暦3年)の 和田合戦 後に横山荘を手に入れた 大江広元 の館跡という伝承があるようです。 廣園寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

八王子の総鎮守:八幡八雲神社

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八幡八雲神社 は、武蔵七党の一つ横山党の本拠地だった多摩郡横山荘(現在の八王子市)に創建された神社。 横山党は、武蔵国や相模国に割拠した同族的武士団で秩父氏・梶原氏・和田氏・渋谷氏などと婚姻関係を結びながら勢力を拡大していきました。 しかし、1213年(建暦3年)の 和田合戦 で総帥の横山時兼が 和田義盛 に加担して敗れたことにより、横山荘は 大江広元 の領地とされ、歴史の表舞台から姿を消しました。 境内にある横山神社は、 大江広元 が横山党の始祖・横山義孝を祀るために建立したのだと伝えられています。 八幡八雲神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源実朝の勘気を蒙った東重胤と北条義時~鎌倉殿と和歌~

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東重胤(とうしげたね)は、千葉氏の一族・東胤頼の子( 千葉常胤 の孫)。 和歌に優れ、 源実朝 の寵愛を受けた武将。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 1206年(建永元年)11月18日、重胤は実朝の勘気を蒙り籠居することに。 その理由は・・・ この年、重胤は突然に休暇をとって下総国へ帰ってしまい、数か月も出仕しなかったため、実朝が重胤に和歌を送って出仕を催促しますが、それでもなかなか戻って来なかったから・・・ 翌12月23日、重胤は、事の次第を 北条義時 に相談します。 義時は、 「そのようなことは長く続くことではありませんし、仕えている者であればよくあることです。 和歌を献じれば、ご機嫌も直るでしょう」 と話したのだと言います。 すると重胤はさっそく一首の和歌を詠みます。 感心した義時は重胤を連れて御所へ赴き、重胤の詠んだ和歌を実朝も前に置き、 「重胤が悲しんでおりました」 と申し上げると、実朝はその和歌を三度も詠じて、門の外にいた重胤を呼び寄せて、田舎の冬の景色などを訪ねたのだとか。 そして、引き下がる義時に重胤は手を合わせて感謝し、子々孫々まで仕えることを誓ったのだという。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

畠山重忠の菅谷館~嵐山町~

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武蔵国男衾郡畠山(現在の深谷市)で生まれた 畠山重忠 は、やがて、鎌倉街道の要衝にあたる菅谷(現在の比企郡嵐山町)の地に移ります。 国の史跡に指定されている 菅谷館跡 が重忠の館跡と考えられています。 畠山重忠像は、竹筋コンクリート製で1929年(昭和4年)に造られました。 ただ、現存する遺構は戦国時代のもので、重忠の時代のものとされる遺構は発見されていないのだそうです・・・ 菅谷館跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

畠山重忠の生誕地~深谷市畠山~

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畠山館跡 畠山重忠 は、1164年(長寛2年)、武蔵国男衾郡畠山の地で誕生。 畠山氏は 秩父一族 で、重忠の父 重能 がこの地に進出して畠山を名乗りました。 館跡は、 北条時政 の謀略によって討たれた重忠主従の墓所にもなっています。 重忠主従の五輪塔 重忠産湯の井戸 畠山重忠像 館跡は、 畠山重忠公史跡公園 として整備されています。 畠山重忠像は、 一ノ谷の戦い の 鵯越 (ひよどりごえ)の逆落しの際、愛馬三日月を背負って下りたという伝説の光景を表したもの。 畠山重忠公史跡公園 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ