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開花した中尊寺ハス~鎌倉:永福寺跡~2022/07/06

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昨年から 永福寺跡 に置かれている 中尊寺ハス 。 2、3日前に開花したようです。 先週の土曜日に確認した時は枯葉が目立ちましたが、かなりサッパリしました。 7月2日の様子 この蕾も2、3日のうちに開花しそうです。 永福寺跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝の死と二代鎌倉殿・源頼家と三左衛門事件

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晩年の 源頼朝 は・・・ 1195年(建久6年)、 東大寺 の 大仏殿 の落慶供養に参列するため上洛した頼朝は、長女の 大姫 を入内させるため反幕派の 丹後局 と源通親に接近しましたが、1197年(建久8年)7月14日、大姫が亡くなり、頼朝の夢は断たれました。 その間、それまで頼朝と協力体制を築いてきた親幕派の 九条兼実 が失脚。 1198年(建久9年)には、通親の養女が産んだ土御門天皇が即位し、反幕派の通親が天皇の外戚として権勢を強めることとなります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ そうした情勢の中で、1199年(建久10年)1月13日、 頼朝 が死去。 その頃の通親は、自らが頼朝が任官していた 右近衛大将 に就任するにあたって、幕府の反発を和らげるために頼朝の嫡子・ 頼家 を左近衛中将に昇進させようと考えていたようです。 ただ、頼朝の死によって、頼家が喪に服すこととなるので、頼家の左近衛中将任官を延期せざるを得ない状況となります。 ところが・・・ 『吾妻鏡』によると、1月20日、頼家は左近衛中将に任官されます。 1月26日には、 「前征夷大将軍源頼朝の跡を継いで、これまでのように諸国守護を奉行せよ」 という宣旨が下されています。 通親は、頼朝の死を知りながら、その死が公表される前に、自らの右大将就任と頼家の昇進の手続きを取ったのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ しかし、その直後から京都は緊迫した情勢となり、一条能保の郎等が通親の襲撃を企て、命の危険を感じた通親が院御所に立て籠もるという事態となってしまいます。 一条能保は、頼朝の姉妹・ 坊門姫 の夫で、頼朝から全幅の信頼を寄せられていた公卿。 1197年(建久8年)10月13日に死去し、嫡子の高能も同年9月17日に死去していましたが、一条家が頼朝の死によって冷遇されると考えた家人らが通親襲撃を企てたのだといいます。 これに対して幕府は、 大江広元 が中心となって通親支持を表明し、2月14日には、後藤基清・中原政経・小野義成が捕えられました。 この事件は、捕らえられた3名がいずれも左衛門尉であったことことから、三左衛門事件と呼ばれています。 その後、事件関係者とみられる西園寺公経・持明院保家・源隆保が出仕を止められ、頼朝と親交のあった

三浦義澄が信仰した住吉神社~横須賀~

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横須賀市久里浜の 住吉神社 は、三浦水軍の船霊として信仰された神社。 1180年(治承4年)8月、 衣笠城 を脱出した 三浦義澄 は住吉神社で祈願し、 源頼朝 に合流するため 安房 へ向けて出航したのだと伝えられています。 住吉神社 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条時房の烏帽子親・佐原義連が建てた満願寺~横須賀~

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横須賀市の 満願寺 は、 三浦義明 の末子十郎義連が建立した寺院。 佐原義連の墓 義連は、 源義経 に従った 一ノ谷の戦い の 鵯越 で「三浦にとっては馬場も同然」といって真っ先に駆け下りたという武将。 源頼朝 の命で 北条時政 の三男(のちの 時房 )の烏帽子親になりました。 満願寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼朝が三浦義明の追善のために建てた満昌寺~横須賀~

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満昌寺 は、1194年(建久5年)、 源頼朝 が 三浦義明 の追善のために建立した寺。 1180年(治承4年)8月、 伊豆国 で頼朝が 挙兵 すると、義明は一族を 石橋山 に送ります。 しかし、三浦軍は雨によって増水した酒匂川を渡ることができず、その間に頼朝は石橋山の戦いで大敗してしまいました。 仕方がなく兵を引いた三浦軍でしたが、帰路の 由比ヶ浜 で、当時まだ平家方の大庭景親に従っていた 畠山重忠 軍に遭遇してしまいます。 三浦軍と畠山軍は、戦うつもりはなかったようですが、 杉本城 (鎌倉 杉本寺 )を守っていた和田義茂が、三浦軍が攻められていると勘違いし、畠山軍を攻めたため合戦となってしまったのだとか。 辛うじて畠山軍を退けた三浦軍は 衣笠城 に辿り着きますが、日を置いて、重忠は衣笠城に攻め込んできました。 敗戦が確実となったとき、義明は子の義澄らに対し、逃れて頼朝に従うことを諭し、自らは城に残り自刃したのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ