晩年の源頼朝は・・・
1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列するため上洛した頼朝は、長女の大姫を入内させるため反幕派の丹後局と源通親に接近しましたが、1197年(建久8年)7月14日、大姫が亡くなり、頼朝の夢は断たれました。
その間、それまで頼朝と協力体制を築いてきた親幕派の九条兼実が失脚。
1198年(建久9年)には、通親の養女が産んだ土御門天皇が即位し、反幕派の通親が天皇の外戚として権勢を強めることとなります。
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そうした情勢の中で、1199年(建久10年)1月13日、頼朝が死去。
その頃の通親は、自らが頼朝が任官していた右近衛大将に就任するにあたって、幕府の反発を和らげるために頼朝の嫡子・頼家を左近衛中将に昇進させようと考えていたようです。
ただ、頼朝の死によって、頼家が喪に服すこととなるので、頼家の左近衛中将任官を延期せざるを得ない状況となります。
ところが・・・
『吾妻鏡』によると、1月20日、頼家は左近衛中将に任官されます。
1月26日には、
「前征夷大将軍源頼朝の跡を継いで、これまでのように諸国守護を奉行せよ」
という宣旨が下されています。
通親は、頼朝の死を知りながら、その死が公表される前に、自らの右大将就任と頼家の昇進の手続きを取ったのだといいます。
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しかし、その直後から京都は緊迫した情勢となり、一条能保の郎等が通親の襲撃を企て、命の危険を感じた通親が院御所に立て籠もるという事態となってしまいます。
一条能保は、頼朝の姉妹・坊門姫の夫で、頼朝から全幅の信頼を寄せられていた公卿。
1197年(建久8年)10月13日に死去し、嫡子の高能も同年9月17日に死去していましたが、一条家が頼朝の死によって冷遇されると考えた家人らが通親襲撃を企てたのだといいます。
これに対して幕府は、大江広元が中心となって通親支持を表明し、2月14日には、後藤基清・中原政経・小野義成が捕えられました。
この事件は、捕らえられた3名がいずれも左衛門尉であったことことから、三左衛門事件と呼ばれています。
その後、事件関係者とみられる西園寺公経・持明院保家・源隆保が出仕を止められ、頼朝と親交のあった文覚も連座して検非違使に身柄を引き渡されました。
2月26日には、中原親能が上洛して騒動の処理を行ったことで、京都は落ち着きを取り戻したのだと伝えられています。
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『吾妻鏡』によると・・・
3月5日、三左衛門の一人・後藤基清の讃岐の守護職が解任され、後任には近藤国平が置かれます。
頼朝の時代に定められた事を改めた最初の出来事となりました。
このことについて『北条九代記』は、
「この改任は危険な事で政治が乱れるだろう」と人々が避難したと記しています。
『吾妻鏡』には、「改め被るの始」と記され、先例を改める事は良くない事が起こる前兆という意味が込められているのだとか・・・
『吾妻鏡』と『北条九代記』には、後藤基清の処分とあわせて、頼朝の二女三幡が病気となってしまったことが記されています。
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