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吾妻鏡が伝える奥州平泉の中尊寺

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中尊寺 は、慈覚大師円仁が開いたと伝えられ、奥州藤原氏初代の 清衡 が堂塔を整えました。 「平泉~仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群~」の構成資産として世界文化遺産に登録されています。 月見坂 八幡堂  弁慶堂 『吾妻鏡』は 中尊寺 について以下のように伝えています。 堂塔は40余、禅坊は300余。 清衡が奥六郡の管理を初めて最初に建てられた寺で、白川の関(福島県白河市)から外の浜(青森市)までの道に一町(約109m)ごとに、面に金色の阿弥陀像が描かれた笠塔婆を建て、その中央を計り、その山の上に塔を建てた。 寺院の中央には多宝寺があって、釈迦如来と多宝如来を安置。 塔と多宝寺の中間に道を通して関所を置き、旅人の往来の道とした。 本堂 釈迦堂 釈迦堂 には、百余体の釈迦如来像を祀った。 両界堂の仏像は木造で金色。 二階大堂 (大長寿院)は、高さは五丈、本尊は三丈の金色阿弥陀仏、脇立の九体の阿弥陀仏は丈六。 大長寿院 金色堂 は、建物全てが金色で、堂内には三つの壇があって全て螺鈿で飾られ、阿弥陀三尊、二天、六地蔵は定朝の作。 金色堂 金色堂旧覆堂 鎮守は、南に日吉社を崇敬し、北に白山宮を勧請。 白山神社 その他、宋の一切経を納める経蔵など・・・ 経蔵 清衡は、 延暦寺 、 園城寺 、 東大寺 、 興福寺 など国内の寺から、中国の天台山まで、寺毎に千僧供養を行った。 (※千僧供養とは、千人の僧を招いて食事を提供し、法会を営むこと。) そして、死に臨んでは、極楽往生を願う「逆修」を始め、百日目に当たる日に、病気でもないのに、合唱し、念仏を唱えながら、眠るが如く眼を閉じた。 藤原清衡 鐘楼 讃衡蔵 大池 弁慶の墓 中尊寺 https://www.yoritomo-japan.com/hiraizumi/tyusonji/tyusonji.html ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

吾妻鏡が伝える奥州藤原氏三代

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奥州藤原氏三代とは、 藤原清衡 ・基衡・ 秀衡 のこと。 1189年(文治5年)9月23日、 平泉館 を焼き払い北方へ逃げた藤原泰衡を追って厨川にいた 源頼朝 は、 平泉 に戻ると 無量光院 を参詣しています。 『吾妻鏡』によると、そのとき頼朝を案内した清原実俊は、奥州藤原氏三代について以下のように説明しています。 清衡は、継父・清原武貞(鎮守府将軍の清原武則の子)亡き後、奥六郡(伊澤、和賀、江刺、稗貫、志波、岩井)を伝領し、嘉保年中(1094-1095)頃に江刺郡豊田館を平泉に移して宿館とし、33年後に亡くなった。 陸奥と出羽の両国には、一万余の村があり、村ごとに寺院を建て、その燈明用の油代のための水田を寄付した。 中尊寺 基衡は、父を超える財福となって両国を官領し、33年後に亡くなった。 毛越寺 秀衡は、絶えすたれた寺院を再興した。 鎮守府将軍となってからは、官職も父や祖父を越えて、その栄耀は子弟にも及んだ。 33年を経て亡くなった。 無量光院跡 この99年間に、建築された寺院や堂塔は、幾千万か数え切れません。 『吾妻鏡』によると、奥州藤原氏三代のそれぞれの治政は、いずれも33年という年月だったようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ