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安産祈願のおんめさま~鎌倉:大巧寺~

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大巧寺 大巧寺 は、安産祈願の寺として知られる日蓮宗の寺院。 「おんめさま」と呼ばれますが・・・ 5世の日棟は、難産で死んだ秋山勘解由の妻の霊魂を鎮めるため、「産女霊神」として奉ったのだそうです。 「産女(うぶめ)」が転訛して「おんめ」になったのだとか。 参考までに、我が国では妊娠5ヶ月目の最初の戌の日に安産を祈願する風習があるそうです。 源頼朝軍評定旧址 もともとは十二所の 梶原景時 の 屋敷 内にあった「大行寺」という真言宗の寺で、 源頼朝 が戦評定を行い大勝を収めたことから、「大巧寺」と改められたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 9月14日~16日 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

流鏑馬神事~甲斐源氏に伝えられた弓馬の礼~

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弓馬の礼は、896年(寛平8年)、宇多天皇に命じられた源能有が制定。 能有は、これを貞純親王に伝えます。 そして、貞純親王の子で清和源氏の始祖 六孫王経基 に伝承され、清和源氏が相伝するようになったといわれています。 経基 →満仲→頼信→ 頼義 → 義家 と相伝された弓馬の技術は、義家の弟 義光 によって甲斐の武田家・小笠原家に伝えられました。 武田流流鏑馬 武田流流鏑馬 は、武田信光を祖とする安芸武田家に伝えられた弓馬術。 信光は甲斐源氏5代当主。 父は武田氏初代の 信義 。 源頼朝 に仕えて活躍し、小笠原長清・海野幸氏・望月重隆とともに 弓馬四天王 と呼ばれました。 『吾妻鏡』によると 信光は、 鶴岡八幡宮 の 流鏑馬 の起源となる1187年(文治3年)8月15日の放生会で射手に選ばれています。 1193年(建久4年)8月16日の 流鏑馬 では、 弓馬四天王 がそろって射手に選ばれました。 頼朝亡き後も活躍し、1221年(承久3年)の 承久の乱 では、東山道の大将軍として兵を率い、乱後には安芸国守護に任じられました。 ※安芸国守護に任じられた時期には諸説あるようです。 小笠原流流鏑馬 鶴岡八幡宮 の 例大祭 で奉納される 小笠原流流鏑馬 は、小笠原長清を祖とする小笠原家に伝えられた武家礼法。 長清は、高倉天皇の下で滝口武者として活躍した甲斐源氏・加賀美遠光の次男。 母は杉本義宗の娘( 和田義盛 の娘という説も。)。 妻は 上総広常 の娘。 甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、高倉天皇から小笠原の姓を賜りました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

源頼朝挙兵之碑~伊豆の国市:守山八幡宮~

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源頼朝治承四年(一一 八〇)八月十五日守山八幡宮に平家追討を祈願して挙兵。 夜陰、源氏重忠の軍兵数十騎、山木判官平兼隆を襲い討つ。 其の間、頼朝遥かに山木館の火煙を望み悲願の達成を悦ぶ 蓋し鎌倉幕府草創の礎はここに於て成ると。 故に記して建碑の所以とする。 山木兼隆館跡の碑 山木兼隆の五輪塔 (香山寺) 守山八幡宮 守山八幡宮 は、 北条の里 の中心にある守山の中腹に鎮座する神社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

後醍醐天皇の崩御

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1333年(元弘3年)、鎌倉幕府を滅ぼして天皇親政を開始した 後醍醐天皇 (建武の新政)。 しかし、1336年(延元元年)、 足利尊氏 が光明天皇を擁立して室町幕府を開いたことで建武の新政は崩壊。 後醍醐天皇 は 吉野 に退いて南朝を興しましたが、1339年(延元4年 / 暦応2年)8月16日、還御することなく崩御(宝算52)。 後醍醐天皇塔尾陵 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 後醍醐天皇導きの稲荷 吉野に行幸する 後醍醐天皇 を導いてくれた稲荷神。 吉水神社 吉野へ行幸した 後醍醐天皇 は、吉水院( 吉水神社 )に行宮を設けて居所としました。 如意輪寺 後醍醐天皇御霊殿 如意輪寺 は、 後醍醐天皇 の勅願寺と定められた寺。 大塔宮仰徳碑 吉野山は、 後醍醐天皇 の皇子 大塔宮護良親王 のゆかりの地でもあります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

「鎌倉検定」で「鎌倉殿の13人」~文覚~

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源頼朝に平家打倒の挙兵を勧めた文覚が開山と伝えられる( ① )寺には平氏滅亡の折りに( ② )が最後まで持っていたと伝えられる平氏の赤旗が保存されている。 (第10回鎌倉検定試験1級) 平宗盛 は、 壇ノ浦の戦い で捕えられて鎌倉に送られてきました。 その時に所持していたのが、 補陀洛寺 に残されている 平家の赤旗 なのだとか・・・ 補陀洛寺 は、 源頼朝 の祈願所として創建された寺。 開山は、 伊豆国 で頼朝に挙兵を勧めたという 文覚 。 文覚は、北面の武士として鳥羽上皇に仕えていましたが、源渡の妻 袈裟御前 に懸想し、誤って殺してしまったことから出家。 その後、 後白河法皇 に 神護寺 再興を強訴して 伊豆国 に流され、 蛭ヶ小島 に流されていた頼朝と出会ったのだといいます。 補陀洛寺 平家の赤旗 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大御堂橋辺りを流れる滑川は、古くは何と呼ばれていたか。 (第11回鎌倉検定試験3級) 1 太刀洗川 2 胡桃川 3 坐禅川 4 閻魔川 大御堂橋の付近には、 文覚の屋敷 があったことから、坐禅川と呼ばれていました。 文覚上人屋敷跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 成就院と補陀洛寺には、ある僧の荒行の様子を表した独特の表情が印象的な瓜二つの像があるが、その僧はだれか。 (第3回鎌倉検定試験2級) 成就院 の本堂前には「文覚上人荒行像」の模造が置かれています。 補陀洛寺 と 成就院 の文覚像は、横浜の 証菩提寺 の像を模刻したものと考えられています。 文覚上人荒行像 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ