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鶴岡八幡宮の桜2021/03/03

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源頼朝も参列した桃の節句の法会

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3月3日は桃の節句。 桃の節句は、平安時代以前からあったようで、健康と厄除を願った「上巳の節句」が始まりとされています。 鎌倉時代になると、「上巳の節句」は、武家社会でも行われるようになります。 『吾妻鏡』には、たびたび3月3日に 鶴岡八幡宮 で法会を行ったことが記され、 源頼朝 は、 箱根権現 や 伊豆山権現 の稚児を呼び寄せて舞楽を勤めさせていました。 臨時祭では、飾り馬、 流鏑馬 、相撲などが奉納されていたようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~流し雛から雛祭り~ 平安時代の上巳の節句には、紙で作った人形をひな壇に飾り、祭が終わると紙の人形で体を撫でて穢れを落とした後、海や川に流していました。 光源氏もお祓いをした人形を船に乗せ、須磨の海に流したのだとか。 流し雛は、3月の初めの「物忌」(ものいみ)の時に、禊ぎをして穢れを祓ったことに始まったもので、身の穢れを身代わりである人形に託して流し去ろうというもの。 6月と12月に行われる 「大祓」 の神事が「流し雛」の原型といわれているようです。 やがて、雛人形が生まれ、江戸時代には雛祭りとして発展していったのだといいます。 桃の節句と呼ばれるのは、旧暦の3月上旬が「桃の花の咲く頃」なのでそう呼ばれるようになったといわれています。 中国では、桃の花に入った酒を飲むと、長生きできると伝えれ、日本でも桃の花の入った酒を飲むようになったのだとか・・・。

女性問題で蟄居した北条義時の子朝時

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1212年(建暦2年)5月7日、 北条義時 は、次男朝時を勘当し、駿河国富士郡へ下向させました。 その理由は、女性の居室に忍び込むという問題を起こしたため。 その女性とは、将軍 源実朝 の妻 坊門姫 の官女。 佐渡守親康の娘で、前年に京都から下ってきていました。 その美貌に夢中になった朝時は、恋文を渡しますが承知されなかったため、深夜に居室へ忍び込んで誘い出したのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条朝時は、義時の正室 姫の前 の子。 1193年(建久4年)誕生。 三代執権となった 北条泰時 の異母弟。 正室の長子であることから嫡男だったとも考えられますが・・・ 『吾妻鏡』には朝時誕生の記述はなく、このころの記録では泰時が嫡男とされています。 1203年(建仁3年)の 比企能員の変 後、義時と 姫の前 が離婚しています(姫の前は比企朝宗の娘でした。)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1206年(建永元年)10月24日に元服。 次郎朝時と名乗ります( 源実朝 から一字を賜ったようです。)。 和田義盛 の謀反が決定的となる中の1213年(建暦3年)4月29日、蟄居していた駿河国から鎌倉に戻り、5月2日の 和田合戦 では泰時とともに御所での防御戦に力を尽くしました。 1221年(承久3年)の 承久の乱 では北陸道の大将軍として出陣しています。 1245年(寛元3年)4月6日死去(53歳)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 朝時は、祖父である 北条時政 の名越邸を継承したことから、名越朝時とも呼ばれます(名越流北条氏の祖)。 時政は、朝時を後継者と考えていたという説があるようですが、朝時が名越邸を継承した理由や時期は不明です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北条氏の「三つ鱗」

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伝説によると 北条氏の家紋 は、 北条時政 が 江の島 に参籠したときに得た龍神の3つの鱗。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

北鎌倉:東慶寺の梅2021/03/01

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