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比企尼の比丘尼山伝説と若狭局の串引沼伝説~東松山市~

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比丘尼山 比丘尼山 は、 源頼朝 の乳母で伊豆の流人時代の頼朝を援助し続けたという 比企尼 が、夫比企掃部允の没後に草庵を営んだという場所。 串引沼 鎌倉幕府二代将軍 源頼家 の側室だった若狭局( 比企能員 の娘)は、伊豆国の 修禅寺 で頼家が暗殺されると、頼家の位牌を携えて故郷に帰り、 比丘尼山 の麓に頼家を弔うための壽昌寺を建立したのだといいます。 若狭局は、頼家の形見の櫛を大切にし往事を偲んでは涙にくれていましたが、それを見かねた比企尼は、櫛を捨てて思いを断ち切るように諭したのだといいます。 若狭局が泣く泣く櫛を捨てたのが 串引沼 なのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河は北条義時

源頼朝の側近中原親能

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鎌倉幕府の草創期に 源頼朝 に招かれて下向した公家出身の御家人。 政所別当を務めた 大江広元 の兄なのだという。 頼朝の側近として軍事・行政を補佐し、京都守護・政所公事奉行など重職を歴任。 平家追討・奥州征討にも従軍した。 1186年(文治2年)、頼朝に次女の 三幡 が誕生すると、親能の妻が乳母に就任。 1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去すると、20日には 頼家 が家督を相続するが、4月12日には頼家の訴訟親裁が停止され、 宿老13人による合議制 によることが決定されると親能もその一人に加わえられた。 同年6月30日、三幡が死去したことに伴い出家。 1209年(承元2年)12月18日、京都で卒去(66歳)。 石山寺 (大津市) 『石山寺縁起絵巻』によれば、 中原親能は頼朝の命により山城国和束における謀反人を追討する際、 石山寺 に参詣して毘沙門天に戦勝を祈願し勝利を収めたのだという。 その報恩のため、親能は勝南院を建立し、妻の亀谷禅尼は剃髪後に 石山寺 に住して宝塔院を建立して大日如来の胎内に頼朝の髪を収めて日々勤行したのだと伝えられている。 源頼朝と亀谷尼の宝篋印塔 (石山寺) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河は北条義時

高倉宮趾~源頼朝に平家打倒の令旨を発した以仁王の邸跡~

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1180年(治承4年)4月9日、 源頼政 の申し入れを受けて、 源頼朝 をはじめとする全国の源氏に平家打倒の 令旨 を発した以仁王の邸跡。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 以仁王は後白河法皇の第三皇子。 邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮、高倉宮と称されました。 母の出自が高貴でなかったためか、幼年期の動向は、あまり知られていません。 1179年(治承3年)、 平清盛 が後白河法皇を幽閉すると平家討伐の準備を始めたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~以仁王の最期~ 諸国の源氏に 令旨 を発した以仁王でしたが、その計画は5月の初旬には平家方に露見。 『吾妻鏡』によれば・・・ 5月15日、以仁王は土佐国流罪と決定され、検非違使の源兼綱(頼政の養子)と藤原光長が三条高倉御所を襲撃していますが、以仁王は源頼政の知らせを受けて逃亡。 5月19日には 園城寺 (三井寺)に入り、頼政も近衛河原の邸に火をかけ、家人らを引き連れて合流しています。 そして、5月26日、 興福寺 の僧兵を頼って南都へと向かいますが、平知盛、維盛ら2万の軍勢に攻められ、頼政は 宇治平等院 で討死しました。 以仁王は、頼政らが戦っている間、南都へ向かうが、南山城の加幡河原で平氏の家人、藤原景高・伊藤忠綱らの追討軍に追いつかれて討たれています。 以仁王の平家打倒の計画は失敗に終わりましたが、 源頼朝 や 木曽義仲 などの源氏の挙兵へと繋がり、平家滅亡の糸口となりました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

三年坂の瓢箪屋さん。~京都:清水寺~

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清水寺 の参道 三年坂 には瓢箪屋さんがあります。 伝説よると・・・ 三年坂の石段で転ぶと3年以内に死ぬといわれてきました。 ただ、瓢箪を持っていれば「転んでも死なない」という言い伝えが生まれ、坂の下には瓢箪を売る店ができたのだとか・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

石山寺如意輪観音の御開帳~8月10日まで延長~

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石山寺 の本尊如意輪観音は、33年に1度、若しくは、天皇即位の翌年に、勅使によって開扉されます。 2020年(令和2年)は天皇即位の翌年。 3月18日に開扉されました。 6月30日まで特別拝観が行われる予定でしたが、新型コロナウイルスの感染拡大を防止するため石山寺は4月22日から5月31日まで閉門していたため、8月10日まで期間を延長しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。

東大寺の大仏造立と観音伝説~石山寺~

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743年(天平15年)、「大仏造顕の詔」を発した聖武天皇。 東大寺 の 大仏 造立にあたっては表面に金を施すため大量の黄金が必要でした。 聖武天皇は、 良弁 に金の山と信じられていた大和国吉野の 金峯山 で金の産出を祈願するよう命じます。 すると・・・ 良弁の夢に蔵王権現が現われてこう告げました。 「金峯山の黄金は、弥勒菩薩が出現したときに地を覆うために使うので、大仏のためには使えない。 近江国の湖水の南に観音菩薩が現れる場所がある。 そこへ行って祈るがよい」と。 夢のお告げのとおりに石山の地を訪れた良弁は、巨大な岩の上に聖武天皇から預かった聖徳太子の念持仏(金銅如意輪観音像)を祀って祈願すると・・・ 程なく、陸奥国で黄金が産出されて祈願が達成されました。 しかし、観音像を移動させようとしても岩の上から離れません。 そこで、観音像を覆うように堂を建てたのが 石山寺 の始まりなのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 比良明神影向岩 石山の地を訪れた良弁は、この石の上で釣りをしていた比良明神に出会い、この山が観音の霊地であることを教えられたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 東大寺の大仏 金峯山寺 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。