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鶴岡八幡宮から浅草寺に移された一切経と四天王像

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浅草寺宝蔵門 宝蔵門 は 浅草寺 の山門。 仁王像を安置していることから仁王門とも呼ばれていました。 東京大空襲で焼失した後は、再建された建物内部に収蔵室が設けられ、浅草寺の什宝物を収蔵していることから「宝蔵門」と呼ばれています。 元版一切経 その収蔵室に収められている什宝の中には、 北条政子 が長男 頼家 の追善供養のために 鶴岡八幡宮 に奉納したという「元版一切経」(げんぱんいっさいきょう)があります。 明治の神仏分離で焼却されそうになったところを、浅草観音に帰依していた貞運尼が買い取って浅草寺に移したのだといいます。 浅草寺二天門 二天門 は 浅草寺 の東門。 江戸期までは、豊岩間戸命(とよいわまどのみこと)・櫛岩間戸命(くしいわまどのみこと)の二神を安置していたことから「矢大神門」(やだいじんもん)と呼ばれていましたが・・・ 明治の神仏分離で二神が廃されて、 鶴岡八幡宮 から移された四天王像のうちの広目天と持国天が安置されたことから、二天門と呼ばれるようになったのだとか。 残念ながら、鶴岡八幡宮の四天王像は東京大空襲で焼失してしまったそうです。 浅草寺 https://www.yoritomo-japan.com/asakusa/sensoji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

浅草寺の雷門

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風神・雷神像を安置する浅草寺の総門。 いつの頃からか「雷門」と呼ばれるようになりました。 風神像 雷神像 風神像と雷神像の裏側には、天龍像と金龍像。 天龍像 金龍像 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

隅田川沿いの源頼義・源義家伝説~鳥越神社・今戸神社~

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鳥越神社 鳥越神社 は、東夷征討の折に暫く滞在した日本武尊を祀るため、651年(白雉2年)、村人が建てた白鳥神社を始まりとする社。 その後・・・ 永承年間(1046年~1053年)に、奥州安倍氏の反乱を鎮圧に向かう 源頼義 ・ 義家 父子が大川(隅田川)を渡るのに苦心していると、一羽の白鳥が飛んできて浅瀬に立って、対岸に渡れることを教えたのだといいます。 軍勢を対岸に渡すことができた義家は、これは白鳥明神の加護であるとして、白鳥神社を参拝し、鳥越大明神の社号を奉ったのだとか。 以後、白鳥神社は鳥越神社と呼ばれるようになったのだそうです。 都内最大級と言われる本社神輿 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 今戸神社 今戸神社 は、1063年(康平6年)に 源頼義 が京都の 石清水八幡宮 を勧進して創建した今戸八幡を始まりとしています。 この年、頼義は、鎌倉の由比郷にも石清水八幡宮を勧請して 由比若宮 を建てています。 由比若宮は 鶴岡八幡宮 の前身。 今戸神社は、幕末の武装組織「新選組」の一番隊組長だった沖田総司終焉の地でもあります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝伝説を歩く隅田川

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1180年(治承4年)8月、 源頼朝 は伊豆国で 源氏再興の挙兵 を果たします。 相模国進軍後、 石橋山 で大敗してしまいますが、 真鶴 から船で 安房 へ渡って再起を図りました。 そして、10月2日、鎌倉を目指す頼朝は、太井川(現在の江戸川)と隅田川を渡ります。 東白鬚公園 墨田区の東白鬚公園は、平安時代末頃の隅田宿があった場所と推定されています。 『吾妻鏡』によると鎌倉へ向かう頼朝は、10月2日、隅田宿に布陣していました。 そこで、頼朝の乳母を務めた 寒河尼 と対面しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 隅田川神社 かつては、浮島神社と呼ばれていた水神さま。 隅田宿に布陣した頼朝が霊験を感じて建立したのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 石浜神社 源頼朝は 奥州征伐 の ときに社殿を寄進しているのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 袖摺稲荷神社 頼朝が自ら彫った稲荷神を伊豆国の北条に祀ったことに始まる社なのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 牛嶋神社 千葉常胤 が 牛島神社 に祈ったことで、洪水の中、頼朝の大軍が渡河することができたのだとか・・・ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 浅草寺 武蔵国へと辿り着いた頼朝は、 浅草観音 に平家打倒を祈願したのだとか・・・。 浅草寺 の御神木の イチョウ は頼朝のお手植え。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆