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鎌倉検定と文覚と源頼朝

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材木座にある補陀洛寺の開山で、もとは武士であって、平家追討に決起するよう源頼朝を説いた僧侶はだれか。 補陀洛寺 補陀洛寺 は、1181年(養和元年)に 源頼朝 の祈願所として建立されたのだと伝えられています。 開山は 文覚 。 文覚は、もとは武士で遠藤盛遠(えんどうもりとお)といい、北面の武士として鳥羽上皇に仕えていました。 しかし、19歳のときに、源渡の妻袈裟御前に懸想し、誤って袈裟御前を殺してしまったことで出家したのだといいます。 袈裟御前の墓 (京都:恋塚寺) 伝説によると・・・ 1157年(保元2年)春3月、淀川に架けれた渡辺橋の橋供養の警固にあたっていた遠藤盛遠(もりとう)は、美しい女房を見かけます。 「あれはいったいだれか」と思った盛遠。 女房の輿のあとをつけると、源渡(みなもとわたる)の家へ入っていきました。 女房は、3年振りに見た袈裟御前だったのです。 日が経つにしたがって美しくなった袈裟を慕う心が募っていく盛遠。 やがて夏が過ぎ秋がやってきます。 盛遠は9月13日の朝、衣川殿の家に押しかけ「袈裟に会わせてほしい」と強要します。 衣川殿が断ると刀を振りかざして脅します。 困った衣川殿は、仕方なく袈裟に手紙を書いて呼びつけることとしました。 駆けつけてきた袈裟に衣川殿は、盛遠の話を語り、袈裟に殺してくれるよう頼みましたが、袈裟としても母親を殺してまで自身を守るわけにもいきません。 そして、夜になると盛遠が乗り込んできて、袈裟と盛遠は一晩を過ごしました。 朝になると盛遠は「帰さない」と言い出します。 すると袈裟は、「夫の渡を殺してくれ」と頼みます。 「夫の髪を洗い、酒を飲ませて酔いつぶれさせて寝かせます。そこへ忍んできて討ってください」 それを聞いた盛遠は、喜んで日が暮れるのを待ちました。 一方、家に帰った袈裟は、渡の髪を洗い、酒をすすめて、酔いつぶれた渡を奥のとばりに寝かせつけます。 そして、自分の髪を水で濡らし、いつも渡が寝ているところに身を横たえ、盛遠が来るのを待ちました。 そうとは知らない盛遠は、約束どおり渡の家に忍び込み、濡れた髪をした首を打ち落としました。 その首を袋の中に入れて、自分の屋敷に戻った盛遠は、「ほっ

鎌倉検定~源頼朝の挙兵~

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1180年(治承4年)4月27日、以仁王の発した 令旨 を伊豆国の 北条館 で受け取った 源頼朝 は、8月17日、 源氏再興の挙兵 を果たします。 伊豆国の目代 山木兼隆 を討ち取った後、相模国の 石橋山 で敗れてしまいますが、 真鶴 から 安房国 へ渡って再起します。 そして、10月7日(6日とも)、大軍を率いて鎌倉に入りました。 石橋山古戦場 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると、源氏ゆかりの地鎌倉を根拠地とするように源頼朝に進言したとされる人物はだれか 答  千葉常胤 第7回鎌倉検定試験2級 『北条九代記』によると・・・ 作戦会議中に常胤が頼朝に申し上げたことは、 「今の御軍陣は敵の攻撃を防ぐのに適当な土地ではありません。 相模国の鎌倉こそ先祖が残されたすぐれた遺跡であって、地形は堅固で敵を防ぐのに適しています。 陸からの配備も、海上路としても、四方の国郡に達するのに便利です。 兵たちを集めるのにも、軍事用の食糧を運ぶのも思いのままです」 これに加えて 「鎌倉の地名は大織冠藤原鎌足の伝説に由来していること」 「鎌足の玄孫 染屋時忠 が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていたこと」 「平貞盛の孫平直方は、 源頼義 に娘を娶らせ、八幡太郎 義家 が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となったこと」 を申し上げ、 最後に 「将来の幸運をこの世にもたらし、先祖の名を雲の上にまで響かそうとするには、この鎌倉がまことにめでたくすばらしい土地柄です」 と申し上げたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大倉に居を構え、武士として初めて幕府を開いた人物はだれか。 答  源頼朝 第11回鎌倉検定試験3級   大倉幕府跡 1180年(治承4年)10月、源氏再興の挙兵をして鎌倉入りを果たした源頼朝は、大倉の地に御所を構えます。 のちに 大倉幕府 と呼ばれました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ もと武士で、誤って人妻を殺した罪を悔いて出家し、その後、伊豆で源頼朝に挙兵を勧めた僧が開山と伝えられる寺はどこか。 答  補陀洛寺 第2回鎌倉検定試験2級 材木座にある補陀洛寺の開山で、もとは武士であって、平家追

鎌倉検定と巽神社

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〔  壽福寺  〕の鎮守として崇められてきた巽神社は、801年(延暦20)、東北に向かう途中の〔  坂上田村麻呂  〕が、葛原ヶ岡に勧請したのが始まりで、1049年(永承4)には、〔  源頼義  〕が社殿を改修したとも伝えられる。〔  壽福寺  〕の巽(〔  南東  〕)の方角に位置することから、この名がついたという。 第7回鎌倉検定2級 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 巽神社 は、801年(延暦20年)、蝦夷征伐に向かった坂上田村麻呂が、その途上、葛原ヶ岡に勧請したのを始まりとしていると伝えられています。 アテルイとモレの碑 (京都:清水寺) この遠征に成功を収めた田村麻呂は、いったん帰京。 翌年、陸奥国に胆沢城を築き、蝦夷の指導者アテルイ(阿弖流為)を降伏させました。 達谷窟毘沙門堂 (平泉) 平泉 の 達谷窟毘沙門堂 は、坂上田村麻呂が蝦夷討伐を記念して建てました。 1189年(文治5年)の 奥州征伐 を行った 源頼朝 も参詣しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 巽神社 の社殿を改修したという 源頼義 は、河内源氏の二代目棟梁。 頼義は、1028年(長元元年)に起こった平忠常の乱を鎮圧した後、平直方に気に入られ、直方の娘を妻とし、鎌倉の大蔵邸を寄進されました。 以後、鎌倉は河内源氏の東国支配の拠点となります。 壺井八幡宮 (羽曳野市) 壺井八幡宮 は、 源頼義 が河内源氏の本拠地に 石清水八幡宮 を勧請して創建した社。 由比若宮 (鎌倉) 材木座の 由比若宮 (元八幡)も頼義が創建した社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 夏休み鎌倉計画! 夏休み江の島計画! ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

太田道灌の命日

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太田道灌像 (伊勢原市役所) 扇谷上杉家 の家宰として仕え、 江戸城 や 川越城 を築いたことで知られる太田道灌。 上杉家の隆盛に貢献しますが、1486年(文明18年)7月26日、その才能を恐れた主君上杉定正の 糟屋館 におびき出されて謀殺されました。 太田道灌の墓 (伊勢原市・洞昌院) 太田道灌の首塚 (伊勢原市・大慈寺) 暗殺された道灌は、 洞昌院 で荼毘に付され、胴は 洞昌院 に、首は 大慈寺 に葬られたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 道灌は、鎌倉の 英勝寺 の地に居を構えたことがあり、英勝寺は太田道灌の子孫である英勝尼が、徳川家康の許しを得て開いた寺。 英勝寺 (鎌倉) 英勝寺の裏山にも道灌の首塚が建てられています。 太田道灌の首塚 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆