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鎌倉:安養院のオオムラサキツツジ2019/05/02

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大町四ツ角から安養院の方を見るとアカムラサキ色の垣根が目につきます。 門前や観音堂前では、もう少しといった感じですが、観音堂の裏に回ると 良弁尊観の宝篋印塔 が満開のツツジで覆われています。 良弁尊観の宝篋印塔 安養院 https://www.yoritomo-japan.com/page126anyoin.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 端午の節句 端午の節句 5月3日・4日・5日 ~アジサイの名所~ ~開花・見頃情報~

熱田神宮の草薙剣(くさなぎのつるぎ)

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三種の神器 「かわいいフリー素材集いらすとや」 より 草薙剣(くさなぎのつるぎ)は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、あまのむらくものつるぎ)の別称。 三種の神器の一つ。 ~スサノオと草薙剣~ 姉の天照大神(あまてらすおおみかみ)の高天原(たかまがはら)で乱行を働いて出雲に追放されたスサノオ。 そこで出会ったのが老夫婦とその娘・稲田姫命(くしなだひめのみこと)。 老夫婦から、娘がヤマタノオロチに食われてしまうこと聞いたスサノオは、娘を嫁にもらう約束でヤマタノオロチを退治。 その時に大蛇の尾から見つかったのが草薙剣なのだとか。 ~三種の神器~ その後、草薙剣は天照大神に献上され、邇邇藝命(ににぎのみこと)が降臨する際には八咫鏡・八尺瓊勾玉のとともにニニギノミコトに授けられます。 それ以来、天皇家は八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)を三種の神器として宮中に祀ってきました。 『日本書紀』には、宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祀っていたことが記されているようです。 しかし、第10代崇神天皇は、神と同居して寝食を共にするのは畏れ多いとして、天照大神を皇女・豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託し、笠縫邑(かさぬいむら・かさぬいのむら)に祀られます(紀元前92年)。 さらに、95年(垂仁天皇25年)、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)によって伊勢神宮に遷されたようです。 ~日本武尊と草薙剣~ (熱田神宮に祀られた神剣) 父の第12代景行天皇から東征を命じられた日本武尊(やまとたけるのみこと)は、倭姫命から伊勢神宮にあった草薙剣を賜わります。 東国平定の帰路、尾張に滞在した日本武尊は、宮簀媛命(みやすひめのみこと)を妃とし、神剣を妃に預けます。 日本武尊が伊勢国の能褒野(のぼの)で亡くなると、宮簀媛命は、預けられた神剣を祀るため 熱田神宮 を建立したのだといいます(113年(景行天皇43年))。 熱田神宮 https://www.yoritomo-japan.com/owari/atuta-jingu.html ~三種の神器の現在は・・・~ 三種の神器のうち、草薙剣は 熱田神宮 ・八咫鏡

5月3日・4日・5日は混雑が予想される江ノ電

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ゴールデンウィーク中は混雑する鎌倉。 江ノ電は乗車するのに30分以上待つような日も。 駅の外にまで行列ができることも。 ということなので、混雑のピークになる5月3日から5月5日の間はフリーパスの発売は行わないようです。 対象となるのは、「のりおりくん」と「鎌倉・江の島アフタヌーンパス」。 鎌倉駅と長谷駅間では、バスの振替輸送があるそうです。 乗車券や定期券・回数券、小田急やJR発行のフリーパスを持っている方が対象。 バスの乗車区間は、鎌倉駅→長谷観音(片道)。 鎌倉駅東口1番乗り場で振替票が配られるようです。 実施期間は5月3日から5月5日。 ただ、道路も混むものと思われます。 鎌倉駅から長谷寺までは約2キロ。 徒歩30分程度です。 道中にも見どころがたくさんありますので、徒歩を考えてみてもいいのかも。 ↓ ↓ ↓ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 端午の節句 端午の節句 ~アジサイの名所~ ~開花・見頃情報~

2019小田原北條五代祭り

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「北條五代祭り」 は、戦国大名・後北条氏五代を称え偲ぶ祭り。 毎年5月3日に開催されている小田原市最大のイベント。 オープニング音楽祭 12:20~ 小田原城銅門広場特設ステージ 開会セレモニー 12:50~ 小田原城銅門広場特設ステージ 出 陣 式 13:00~ 小田原城銅門広場特設ステージ パレード 13:30~15:30 北条早雲役は小田原ふるさと大使の合田雅吏さん。 北条氏政役には高嶋政伸さん。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 二の丸広場では、 北條六斎市と小田原城名物市。 北條六斎市 5月2日~5月5日 10:00~18:00 ※最終日は17:00まで 小田原城名物市 5月3日・4日 10:00~18:00 ※4日は17:00まで ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条早雲像 小田原城 https://www.yoritomo-japan.com/odawara-jyo.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

改元と源頼朝~治承(じしょう)~

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源頼朝 が生まれたのは久安3年。 その後、仁平、久寿、保元、平治、永暦、応保、長寛、永万、仁安、嘉応、承安、安元、治承と改元がありました。 平治元年には 平清盛 に敗れ、翌永暦元年に 伊豆 へ流されました。 治承元年の頃には 北条政子 と結婚。 そして、治承4年に 挙兵 。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~治承を使い続けた頼朝~ 頼朝が 挙兵 した翌年、元号は「養和」に、さらにその翌年には「寿永」と改元されています。 しかし、頼朝は「治承」を使い続けていました。 それは何故か? 頼朝の挙兵は 以仁王の令旨 に応じての行動でした。 『吾妻鏡』によると・・・ 以仁王の 令旨の内容 は、「平家を追討して 平清盛 が擁した 安徳天皇 に代わって以仁王が皇位に就くことを宣言する」というもの。 つまり、頼朝は中央政府に対して反乱を起こしたという事になります。 中央政府に対して反乱を起こしているのですから、治承から養和、寿永と改元されても、それに従うわけにはいかないといったところでしょうか。 治承を使い続けるということは、朝廷の支配に属さず、独立するということ。 そこに頼朝の政治意識の高さがありました。 寿永2年になると、東国における頼朝の支配権が承認されます( 寿永二年十月宣旨 )。 これによって反乱軍ではなくなった鎌倉軍。 頼朝は、このときから寿永の元号を使い始めています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~寿永を使い続けた平家~ 参考までに・・・ 寿永2年に都落ちした平家は、後鳥羽天皇の践祚によって「元暦」と改元されても「寿永」を使い続けていたそうです。 安徳天皇 を奉じていた平家ですので、改元を認めるわけにはいかなかったのでしょう。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 蛭ヶ小島の頼朝と政子 源頼朝と北条政子が結婚したのは治承元年といわれています。 もうすぐ令和元年。 頼朝が流された 蛭ヶ小島 の二人の像は、新しい時代になっても平和を願い霊峰富士を見つめ続けます。 Beautiful Harmony ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 特別公開4/28・29・30 端午の節句 端午の節句 5