別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2019年4月28日日曜日

改元と源頼朝~治承(じしょう)~

源頼朝が生まれたのは久安3年。

その後、仁平、久寿、保元、平治、永暦、応保、長寛、永万、仁安、嘉応、承安、安元、治承と改元がありました。

平治元年には平清盛に敗れ、翌永暦元年に伊豆へ流されました。

治承元年の頃には北条政子と結婚。

そして、治承4年に挙兵



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~治承を使い続けた頼朝~

頼朝が挙兵した翌年、元号は「養和」に、さらにその翌年には「寿永」と改元されています。

しかし、頼朝は「治承」を使い続けていました。

それは何故か?

頼朝の挙兵は以仁王の令旨に応じての行動でした。

『吾妻鏡』によると・・・

以仁王の令旨の内容は、「平家を追討して平清盛が擁した安徳天皇に代わって以仁王が皇位に就くことを宣言する」というもの。

つまり、頼朝は中央政府に対して反乱を起こしたという事になります。

中央政府に対して反乱を起こしているのですから、治承から養和、寿永と改元されても、それに従うわけにはいかないといったところでしょうか。

治承を使い続けるということは、朝廷の支配に属さず、独立するということ。

そこに頼朝の政治意識の高さがありました。


寿永2年になると、東国における頼朝の支配権が承認されます(寿永二年十月宣旨)。

これによって反乱軍ではなくなった鎌倉軍。

頼朝は、このときから寿永の元号を使い始めています。

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~寿永を使い続けた平家~

参考までに・・・

寿永2年に都落ちした平家は、後鳥羽天皇の践祚によって「元暦」と改元されても「寿永」を使い続けていたそうです。

安徳天皇を奉じていた平家ですので、改元を認めるわけにはいかなかったのでしょう。

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 蛭ヶ小島

源頼朝と北条政子が結婚したのは治承元年といわれています。

もうすぐ令和元年。

頼朝が流された蛭ヶ小島の二人の像は、新しい時代になっても平和を願い霊峰富士を見つめ続けます。

Beautiful Harmony


 源平合戦

 源頼朝挙兵

 歴史めぐり源頼朝






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