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海の見えるハギ参道~鎌倉:成就院~2018/09/22

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アジサイ に代わって ハギ が植えられた成就院の参道です。 見頃はこれからなのかもしれませ。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

安房国にあった丸御厨

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安房国にあった丸御厨は、 源頼義 が前九年の役の恩賞として手に入れた地。 源義朝 が 源為義 から最初に譲渡された地でもあるようです。 義朝は、1159年(平治元年)6月1日、子の 頼朝 の昇進を願ってこの地を伊勢神宮に寄進。 その願いが叶って頼朝は6月28日に蔵人に任命されたのだとか。 『吾妻鏡』によると、1180年(治承4年)9月11日、 源頼朝 は丸信俊の案内で丸御厨を巡見。 昔を思い出して涙を流したのだといいます。 そして、平家討伐の宿望を果たすことができたら、安房国に新しい御厨を立てて伊勢神宮に寄進するという自筆の願文をしたためたのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

父為義と弟たちを斬った源義朝

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1156年(保元元年)7月、皇位継承問題と摂関家の内紛から起こった 保元の乱 。 源頼朝 の父 源義朝 は、 平清盛 とともに 後白河天皇 に味方して勝利します。 しかし、保元の乱は義朝と清盛にとっては、親子・親族・兄弟との戦いでもありました。 7月28日、 清盛 は、叔父の忠正とその息子長盛、忠綱、正綱を 六波羅 の近辺で斬首しました。 2日後の30日には、 義朝 は、父の為義と弟の頼賢、頼仲、為成、為宗、為仲らを船岡山付近で斬首しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~源為義の斬首~ 『保元物語』によると・・・ 保元の乱 で負けた 源為義 は、東国に逃れようとしていたようです。 しかし、重病になり、家来たちも逃げてしまいました。 東国へ下ることが難しくなった為義は、 比叡山 に上って出家し、嫡男の 義朝 のもとに向かいます。 糺の森 から義朝のもとに使いを出して知らせると、義朝は夜になってから輿を用意して密かに為義を迎えに行かせます。 その後、出家して山深くに隠れていた平忠正は、為義が降伏したことを耳にすると、子らとともに 清盛 のもとに降伏。 清盛が助命を願ってくれるものと思っていたという忠正。 助けようと思えば助けられた 清盛 ですが、忠正と子らを六条河原で斬首します。 これは、 清盛 が叔父を斬れば、 義朝 にも父を斬らせることができると考えたからのようです。 ※清盛と忠正は仲が悪かったのだとか・・・ やがて、 義朝 にも為義の首を刎ねるようにとの宣旨が下されます。 義朝 は父の助命を二度までも願ったようですが、 後白河天皇 には聞き入れられませんでした。 「天子さまの命令通りに父を討てば五逆の罪の一つを犯すことになる。 天子さまの命に背けば、たちまちに違勅の者となってしまう」 義朝は悩みます。 すると郎党の鎌田政清が、 「他人の手にかけて討たれるのならば、あなたの手で・・・」 と申し上げると、「お前に任せる」と言って泣きながら内へ入っていきました。 それからすぐに為義のもと参った政清は、 「今の都は平氏の者たちが権力を握り、義朝殿は石の中に閉じ込められた蜘蛛のような存在なので、東国へ下ろうとしています。 為義殿を先に出発させることとしたのでお迎え

丸山城址~源頼朝に仕えた糟屋有季の居館跡~

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丸山城址は糟屋有季の居館があった所といわれています。 糟屋有季は、相模国大住郡糟屋荘の荘司である糟屋盛久の子。 妻は 比企能員 の娘。 1180年(治承4年)に 源頼朝 が 挙兵 したときには、平家方の 大庭景親 に従いますが、後に鎌倉御家人に列します。 『吾妻鏡』によれば・・・ 1186年(文治2年)9月22日、糟屋有季は、京都で 源義経 の家来の堀景光を生け捕り、中御門東洞院では佐藤忠信を討っています。 1203年(建仁3年)、 比企氏の乱 で比企一族とともに討死。 有季亡き後、一族は 後鳥羽上皇 の仕えていましたが、 承久の乱 で討死したのだといいます。 高部屋神社 https://www.yoritomo-japan.com/takabeya-jinjya.htm 糟屋有季は、丸山城址の南にある 高部屋神社 に誉田別命を祀る新たな社殿を造営。 そのため、高部屋神社は糟屋八幡宮とも呼ばれていたそうです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

大和:常泉寺のヒガンバナ2018/09/19

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神奈川県大和市福田2176 小田急江ノ島線「高座渋谷駅」から徒歩10分 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆