1156年(保元元年)7月、皇位継承問題と摂関家の内紛から起こった保元の乱。
源頼朝の父源義朝は、平清盛とともに後白河天皇に味方して勝利します。
しかし、保元の乱は義朝と清盛にとっては、親子・親族・兄弟との戦いでもありました。
7月28日、清盛は、叔父の忠正とその息子長盛、忠綱、正綱を六波羅の近辺で斬首しました。
2日後の30日には、義朝は、父の為義と弟の頼賢、頼仲、為成、為宗、為仲らを船岡山付近で斬首しています。
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~源為義の斬首~
『保元物語』によると・・・
保元の乱で負けた源為義は、東国に逃れようとしていたようです。
しかし、重病になり、家来たちも逃げてしまいました。
東国へ下ることが難しくなった為義は、比叡山に上って出家し、嫡男の義朝のもとに向かいます。
糺の森から義朝のもとに使いを出して知らせると、義朝は夜になってから輿を用意して密かに為義を迎えに行かせます。
その後、出家して山深くに隠れていた平忠正は、為義が降伏したことを耳にすると、子らとともに清盛のもとに降伏。
清盛が助命を願ってくれるものと思っていたという忠正。
助けようと思えば助けられた清盛ですが、忠正と子らを六条河原で斬首します。
これは、清盛が叔父を斬れば、義朝にも父を斬らせることができると考えたからのようです。
※清盛と忠正は仲が悪かったのだとか・・・
やがて、義朝にも為義の首を刎ねるようにとの宣旨が下されます。
義朝は父の助命を二度までも願ったようですが、後白河天皇には聞き入れられませんでした。
「天子さまの命令通りに父を討てば五逆の罪の一つを犯すことになる。
天子さまの命に背けば、たちまちに違勅の者となってしまう」
義朝は悩みます。
すると郎党の鎌田政清が、
「他人の手にかけて討たれるのならば、あなたの手で・・・」
と申し上げると、「お前に任せる」と言って泣きながら内へ入っていきました。
それからすぐに為義のもと参った政清は、
「今の都は平氏の者たちが権力を握り、義朝殿は石の中に閉じ込められた蜘蛛のような存在なので、東国へ下ろうとしています。
為義殿を先に出発させることとしたのでお迎えに参りました」
と言って車を用意します。
すると為義は、「ならば最後に石清水八幡宮を遥拝してお暇をいただこう」と言って、南の方を拝んでから、車に乗り込みました。
七条朱雀には白木の輿が用意されています。
これは為義が車から乗り移るときに討つために準備されたものでした。
その事を知った波多野延景は、
「貴方の考えは間違っています。
人の身は一生の終わりを一番大事にすべきです。
それを物のけじめもなく殺すのは、情けのないことです。
本当のことを知らせて、最期の念仏でも勧めるべきです。
言い残すことなどもあることでしょう」
と政清に言うと、
「もっともなことだ。
思い悩ませることのないように思っての事だが、間違っていたようだ」
と政清が答えると延景は為義のもとに参って、
「実は東下するのではありません。
義朝殿に宣旨が下され、政清が首を切る役目として、為義殿を斬るためなのです。
義朝殿は何度も助命嘆願しましたが、勅定は重く、仕方なく申しつけられたことです。
心穏やかに念仏をお唱えください」
と言うと為義は、
「残念なことだ。
為義ほどの者を騙し討ちしようとすとは・・・
たとえ天子さまの言葉が重く、父を助けることができなくとも、何故真実を伝えてくれなかったのだ。
また、本当に助けたいと思っていれば、我が身に代えても助けようとするもの。
もし義朝が我を頼ってきたなら、命に代えても助けてやるつもりだった。
親のように子は親を思わないのが習いならば、義朝ひとりだけの罪ではない。
ただ恨めしいのは、我に何も知らせなかったこと・・・」
と言って、念仏を百回ほど唱えて、命を惜しむ気配もなく、
「しばらくすれば為義の首が斬られるのを見物しようと、下賤の者が集まってくるから、早く斬れ」
と言ったので、政清が太刀を抜いて為義の後にまわりますが、相伝の主の首を斬るのは心苦しくて、涙に暮れて太刀の先もわからず、持っていた太刀を人に預けました。
※相伝の主:政清は義朝の郎党ですが、政清の父通清も為義の郎党でした。
そして・・・
為義は、声高に念仏を何度か口にして、ついに斬られました。
首実検の後、為義の首は義朝に渡され、供養するようにと仰せが下されたので、政清は首を円覚寺に納め、墓を建てるなどのさまざまな供養が行われたということです。
(京都:権現寺)
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~義朝の弟も誅せらる~
父為義を斬首にした義朝に、さらに宣旨がくだります。
それは「弟たちを探し出して連行し、特に為朝は天子の輿に矢を放てと暴言を吐いた者であるので死罪とせよ」というものでした。
義朝は、方々へ兵を差し向けて探し出しますが、為朝はどこかへ逃げてしまいました。
捕えたのは、頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲。
この五人は、都へ入ってはならないという命が出ていたので、船岡山へ連行されます。
そして、五人は斬られました。
その後、内裏に呼ばれた義朝は、「為義の女子以外の子を皆探し出して討て」と命じられます。
宿所に帰った義朝は、六条堀川にいる四人の弟(13歳の乙若、11歳の亀若、9歳の鶴若、7歳の天王)を騙して連れ出し、船岡山で殺すよう波多野延景に命じています。
逃亡していた為朝は、のちに捕えられ伊豆大島へ流罪となっています。
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