丸山城址は糟屋有季の居館があった所といわれています。
糟屋有季は、相模国大住郡糟屋荘の荘司である糟屋盛久の子。
妻は比企能員の娘。
1180年(治承4年)に源頼朝が挙兵したときには、平家方の大庭景親に従いますが、後に鎌倉御家人に列します。
『吾妻鏡』によれば・・・
1186年(文治2年)9月22日、糟屋有季は、京都で源義経の家来の堀景光を生け捕り、中御門東洞院では佐藤忠信を討っています。
1203年(建仁3年)、比企氏の乱で比企一族とともに討死。
有季亡き後、一族は後鳥羽上皇の仕えていましたが、承久の乱で討死したのだといいます。
糟屋有季は、丸山城址の南にある高部屋神社に誉田別命を祀る新たな社殿を造営。
そのため、高部屋神社は糟屋八幡宮とも呼ばれていたそうです。
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