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源頼朝の挙兵を支援した伊豆山権現の文陽房覚淵

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『吾妻鏡』によると・・・ 源頼朝 は、 挙兵 前の1180年(治承4年)7月5日、 伊豆山権現 の文陽房覚淵を 北条館 に呼び出しています。 頼朝 は、 挙兵 前に法華経を千回読むつもりでいたようですが、それを達成することが難しくなりました。 そこで、「たとえば八百回読んだとしたら功徳をつむことはできるのか?」 と覚淵に訪ねたといいます。 すると覚淵は「八百回でもご利益はあるでしょう」と答えたといいます。 伊豆山神社 (熱海市) 伊豆山神社 は「伊豆山権現」・「走湯権現」とも呼ばれ、 源頼朝 や 北条政子 が崇敬した神社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 8月17日、頼朝が挙兵。 まずは、伊豆国の目代 山木兼隆 の館を攻めます。 兼隆を討ち取ったのは、 佐々木盛綱 と覚淵の兄弟 加藤景廉 でした。 源氏再興の挙兵を果たした頼朝は、8月20日、相模国へと軍を進めます。 その時、 北条政子 と大姫を 伊豆山権現 に匿ったのが覚淵でした。 8月24日、頼朝が 石橋山の戦い に敗れると、覚淵は二人を 秋戸郷 に逃しました。 秋戸郷跡碑 (熱海市) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 般若院 (熱海市) 伊豆山権現 の別当寺として栄えた 般若院 は、覚淵が創建した密厳院を前身としているといいます。 伊豆山神社 https://www.yoritomo-japan.com/izusan.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

天神画像が降ってきた日

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荏柄天神社 1104年(長治元年)8月 25日 、荏草郷といわれた土地に、にわかにかき曇った天から天神画像が降ってきました。 神験を恐れた里の人々は、その場所に社殿を建て、画像の降り立った地を踏むことのないように銀杏の木を植えて御神木とし、その画像を祀ったとのだそうです。 大銀杏 荏柄天神社 の祭神は 菅原道真 。 845年(承和12年)6月 25日 誕生。 901年(延喜元年)正月 25日 太宰府へ左遷。 903年(延喜3年)2月 25日 太宰府で病死。 25日は天神さまの縁日。 荏柄天神社 https://www.yoritomo-japan.com/page041egaratenjinjya.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

新田の八幡宮と称された狭山八幡神社

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1333年(元弘3年)5月、鎌倉幕府打倒の挙兵をした新田義貞が戦勝を祈願したという社。 祭神は、応神天王(誉田別命・ほんだわけのみこと) 狭山市入間川3-6-14 狭山市駅から徒歩7分 狭山八幡神社の先には、 木曽義高を祀る清水八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page140kisoduka.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉幕府滅亡後、伊豆に移された東慶寺の鐘

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東慶寺の鐘 現在の 東慶寺の鐘 は、1350年(観応元年)に鋳造されたもので、もとは 補陀洛寺 の鐘でした。 では、それ以前の鐘は・・・ 1332年(元徳4年)に14代執権・ 北条高時 の母・覚海円成が鋳造させた鐘がありました。 しかし、1333年(元弘3年)5月22日、新田義貞の鎌倉攻めで鎌倉幕府が滅亡すると、覚海尼は残された子女とともに北条氏の拠点だった伊豆国北条に移り住みます。 その時、東慶寺の鐘も伊豆へ運ばれたと考えられているようです。 伊豆に移り住んだ覚海尼は、 源頼朝 も暮らした 北条氏館 の跡に尼寺の円成寺を建立。 円成寺は、江戸時代まで続き、東慶寺の鐘も廃寺となるまで円成寺にあったそうですが、その後、徳川幕府の代官だった江川氏の菩提所 本立寺 へ移されました。 本立寺の鐘 本立寺は平安時代から続く江川家の菩提寺。 鐘には、最初に「相陽山内松岡山東慶禅寺鐘銘」と刻まれ、文末には「壬申元徳二二年結制後十一日」、「大檀那菩薩戒尼 円成」と刻まれています。 壬申元徳は西暦1332年。 後醍醐天皇は1331年に「元徳」から「元弘」と改元していますので、本来「元徳」ではなく「元弘」を使うのでしょうが、鎌倉幕府は「元徳」を使い続けていたのだそうです。 鐘に刻まている元徳のあとの二二年ですが・・・ 「元弘2年」という意味と、もうひとつ二を書き加えることで「四」と読ませ「元徳4年」という意味としたのではないかという説も・・・。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条氏邸跡(円成寺跡) (伊豆の国市) 本立寺 (伊豆の国市) 東慶寺 (鎌倉) ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鶴岡八幡宮例大祭ポスター

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鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm

道元鎌倉御行化顕彰碑とサルスベリ2018/08/22

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我が国曹洞宗の開祖・道元は、1248年(宝治2年)、五代執権北条時頼に招かれて、半年の間、教化のため鎌倉に滞在しています。 ただ、時頼の寺院建立の要請は断り、永平寺に帰りました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆