元号の変更と源平合戦
源頼朝 が挙兵したのは1180年(治承4年)。 その翌年、元号は「治承」から「養和」に改元されます。 安徳天皇の即位が理由のようです。 ただ、 源頼朝 は「養和」の元号を使わず「治承」を使い続けていました。 翌年には、飢饉、合戦などの理由で「寿永」に改元。 これから本格的な 源平の戦い が始まろうとしている時でした。 源頼朝 は、この年の10月、 後白河法皇より 「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。 従わぬ場合は頼朝に連絡して命令を実行させよ」 という内容の宣旨を受け、東国における支配権が承認されています( 寿永二年十月宣旨 )。 この宣旨を受けたことで、頼朝は「寿永」の元号を使い始めています。 さらに1184年には後鳥羽天皇の即位により「元暦」に改元され、その翌年には地震による改元が行われ「文治」となりました。 後鳥羽天皇の即位は、まだ安徳天皇が退位しないまま行われ、安徳天皇が 壇ノ浦 の海で亡くなるまでは、二人の天皇が存在していました。 「文治」への改元については、その年、平家が 壇ノ浦 で滅びていますので、それも理由の一つにあるようですが・・・ 赤間神宮 赤間神宮 は、幼くして 壇ノ浦 の海に沈んだ安徳天皇を祀る社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆