988年(永延2年)、河内国古市郡壺井村で誕生。
1028年(長元元年)、関東で平忠常が反乱を起こすと、追討使には平直方が起用されますが、反乱を一向に鎮圧することができなかったため、1030年(長元3年)、源頼信が起用されます。
頼信と頼義の父子が翌1031年(長元3年)の春に出陣すると、忠常は、これまでの戦いで疲弊していた事もあって頼信に降伏します。
忠常が降伏したのは、かつて頼信の家臣だったからとも伝えられています。
1036年(長元9年)、頼義は相模守に任ぜられます。
その在任中、頼義の武勇に感じ入った平直方は、娘を嫁がせ、鎌倉の大蔵亭を頼義に譲り渡します。
ここから源氏と鎌倉との繋がりが始まりました。
※鎌倉幕府で執権職に付いた北条氏は平直方の子孫とも言われています。
1051年(永承6年)、頼義は陸奥守に就任。
鎮守府将軍も兼任して、陸奥国の奥六郡で半独立的な勢力を形成していた安倍氏の討伐に乗り出します。
そして、1062年(康平5年)、反乱を鎮圧した頼義は、翌1063年(康平6年)2月、都へ凱旋し伊予守に任じられました。
凱旋後、源氏の氏神・石清水八幡宮を勧請して壺井八幡宮や鶴岡八幡宮を創建。
(京都)
石清水八幡宮は平安京の裏鬼門の守護神。
頼義の子義家は石清水八幡宮の神前で元服したことから八幡太郎と呼ばれました。
(大阪・羽曳野市)
壺井八幡宮は、1064年(康平7年)、頼義が社殿を造営し、石清水八幡宮を勧請したことに始まります。
羽曳野市は河内源氏発祥の地。
(鎌倉)
鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)、頼義が由比郷に創建したことに始まります。
(鎌倉)
現在の鶴岡八幡宮は、1180年(治承4年)、源頼朝が由比郷より遷宮した社。
河内源氏二代目の棟梁源頼義は、1075年(承保2年)7月13日没(享年87)。
遺言により河内源氏の菩提寺・通法寺の本堂下に葬られました。
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