その翌年、元号は「治承」から「養和」に改元されます。
安徳天皇の即位が理由のようです。
ただ、源頼朝は「養和」の元号を使わず「治承」を使い続けていました。
翌年には、飢饉、合戦などの理由で「寿永」に改元。
これから本格的な源平の戦いが始まろうとしている時でした。
源頼朝は、この年の10月、 後白河法皇より
「東海・東山両道の国衙領・荘園の年貢は国司・本所のもとに進上せよ。
従わぬ場合は頼朝に連絡して命令を実行させよ」
という内容の宣旨を受け、東国における支配権が承認されています(寿永二年十月宣旨)。
この宣旨を受けたことで、頼朝は「寿永」の元号を使い始めています。
さらに1184年には後鳥羽天皇の即位により「元暦」に改元され、その翌年には地震による改元が行われ「文治」となりました。
後鳥羽天皇の即位は、まだ安徳天皇が退位しないまま行われ、安徳天皇が壇ノ浦の海で亡くなるまでは、二人の天皇が存在していました。
「文治」への改元については、その年、平家が壇ノ浦で滅びていますので、それも理由の一つにあるようですが・・・
赤間神宮は、幼くして壇ノ浦の海に沈んだ安徳天皇を祀る社。
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