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壽福寺の源実朝の碑

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壽福寺 にある 源実朝の碑 。 1992年(平成4年)、 源実朝 生誕800年を記念して建てられました。 鎌倉市名誉市民で日本画家の平山郁夫氏の書による石碑です。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ =壽福寺の開基は・・・?= 『吾妻鏡』には、 北条政子 が「亀谷の土地を栄西に寄附」し、「十六羅漢像の開眼供養」を行い、「 義朝 の 沼浜亭 を壽福寺に寄附した」と記されていることから、政子の開基とされているようですが・・・ 『壽福寺由緒書』には、「開基は頼朝公草創の本願にて頼家公創建」と記されているようです。 壽福寺 に残されている 源実朝 の位牌には、「当寺大檀那」の文字があるのだとか・・・。 壽福寺 https://www.yoritomo-japan.com/page137jyufukuji.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝の母・由良御前

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熱田神宮 大宮司藤原季範の娘として尾張国で誕生した由良御前。 生誕日等の詳しいことは不明。 熱田神宮 (名古屋市熱田区) 熱田神宮 は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を祀った神社で、 113年(景行天皇43年)の創建と伝えられています。 大宮司職は、代々尾張氏(季範の母の実家)が務めていましたが、尾張員職のときに外孫の季範に譲られました。 以後、藤原氏が大宮司職を世襲しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 由良御前は、久安年間頃に 源義朝 と結婚。 頼朝 、 希義 、坊門姫を産みました。 源頼朝誕生地 (名古屋市熱田区・誓願寺) かつて 誓願寺 のある場所には、熱田神宮大宮司藤原季範の別邸があって、由良御前はこの場所で 頼朝 を出産したのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~由良御前の死と平治の乱~ 1159年(保元4年)3月1日、由良御前が亡くなります。 それから9ヵ月後の平治元年12月、 平治の乱 が勃発。 13歳の 頼朝 も初陣を果たしますが、 義朝 は 平清盛 に敗れてしまいます。 義朝 は 尾張国野間 で殺害され、 頼朝 は 伊豆国 へ流されています。 頼朝 が 伊豆国 へ流される際、由良御前の弟・祐範は、郎従1人を付けて送り出し、その後も伊豆国の頼朝の元に毎月使者を送っていたといいます。 希義 は、由良御前の兄(弟?)・範忠に捕えられ、土佐国へ流されました。 坊門姫は後藤実基に預けられたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ のちに鎌倉幕府を開いた 頼朝 は、1189年(文治5年)、母の供養のため、 鶴岡八幡宮 に五重塔を建てています(参考: 鶴岡八幡宮の五重塔 )。 鶴岡八幡宮 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

大山の紅葉~小田急丹沢・大山フリーパスがお得!~

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大山は神奈川県有数の 紅葉の名所 。 大山寺の参道はまさに燃えるような赤。 小田急フリーパスを使えば、指定区間内の電車・バス・ ケーブルカー が乗り降り自由。 かなりお得です。 日向薬師 や 飯山観音 もコースに含まれています。 紅葉ライトアップは平成29年11月18日(金)~27日(日) 平日は日没~19:00 土休日は日没~20:00 小田急線の駅に置いてあります。 丹沢・大山フリーパスのページ 大山寺 https://www.yoritomo-japan.com/isehara/ooyama/ooyamatera.htm 大山阿夫利神社 https://www.yoritomo-japan.com/isehara/ooyama/ooyama-aburijinjya.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~鎌倉も紅葉シーズン~

常盤御前~源義経の母~

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常盤御前(ときわごぜん)は、近衛天皇の中宮・藤原呈子に仕えていたといわれています。 後に 源義朝 の側室となって、 阿野全成 (今若)、 源義円 (乙若)、 源義経 (牛若)を産みました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 常槃井 (京都市北区紫野) 京都市北区紫野にある 常槃井 は、常盤御前が化粧のために使用した井戸と伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1159年(平治元年)、 平治の乱 が勃発。 義朝 が 平清盛 に敗れたことにより、常盤御前と3人の子は、大和国へと逃れていったのだといいます。 子安塔 (清水寺) 伝説によれば、大和国へと逃れる前、常盤御前は、 清水寺 の千手観音に3人の子の無事を祈願したのだと伝えられています。 その千手観音を安置しているのが 子安塔 。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 大和に逃れた常盤御前と3人の子たち。 しかし、都に残った常盤御前の母が捕えられてしまいます。 母を助けるか、三人の子を落ち延びさせるのか・・・ 悩んだ末、 清盛 の下へ自首することを決めた常盤は、1160年(永暦元年)2月、雪の降る中を都へと戻って行きます。 寶樹寺 (京都市東山区本町) 寶樹寺 は、常盤御前ゆかりの薬師如来像を安置する寺。 伝説によると・・・ 都へ戻ってきた常盤御前と3人の子は、一ノ橋にさしかかったところで、雪を避けるため松の木の下で休息をとったそうです。 そして、再び歩き出そうとすると・・・ 守り本尊としていた薬師如来が次のように告げたのだといいます。 「私をこの地に置いて行きなさい」 その後、常盤と三人の子たちは救われたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 清盛 のもとへ出頭した常盤御前。 ドラマ等で知られた話では・・・ 三人の子を救うため、 清盛 に身をまかせたともいいますが・・・ いずれにしても、三人の子は救われました。 義朝 の嫡男・ 頼朝 が助かっているのですから、当然のことだったのでしょう。 醍醐寺 今若(全成)は出家して 醍醐寺 へ。 園城寺 乙若(義円)も出家して 園城寺 へ。 鞍馬寺 幼かった牛若(義経)は、11歳になってから 鞍馬寺 に預けられましたが、15歳のときに藤原秀衡を頼って奥州へと下っています。

源義経の正妻・郷御前

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源義経 の正妻は、 河越重頼 の娘。 正式な名は不明ですが「郷御前」(さとごぜん)と呼ばれていました。 ※上の画像は、川越の 常楽寺 にある供養塔。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『吾妻鏡』によると・・・ 1184年(元暦元年)9月14日。 義経 に嫁ぐために上洛。 この婚姻は以前より決まっていたのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~頼朝が義経を勘当~ 郷御前が嫁いだ翌1185年(元暦2年)3月、 義経 は 壇ノ浦の戦い で平家を滅ぼしますが・・・ 許可なく官位を受けたことなどの問題で兄・ 源頼朝 の怒りを買ってしまいます。 5月、 義経 は、平家の大将・ 平宗盛 を護送し、鎌倉に凱旋しようとしますが、頼朝は義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。 6月9日、義経は再び宗盛を護送して京都へと帰りますが、 「関東(頼朝)において怨みを成すの輩は義経に属すべき」 と吐いたのだと伝えられています。 10月17日には、頼朝の命を受けた 土佐坊昌俊 が義経の 六条室町の邸 を襲撃(参考: 土佐坊昌俊の義経襲撃 )。 義経は昌俊を返り討ちにしますが、11月3日、都を落ちなければならなくなりました。 11月12日には、郷御前の父・ 河越重頼 が義経の舅であることを理由に領地を取り上げられました(後に、重頼は嫡男重房と共に誅殺されています。)。 この頃、郷御前がどうしていたのかは不明ですが、『吾妻鏡』の記録からすると、1186年(文治2年)に懐妊したものと考えられますので、京都に戻った義経とどこかに潜伏していたのかと思われます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~奥州平泉へ~ その後、頼朝に追われ続けた義経は、1187年(文治3年)2月10日、伊勢・美濃などを経て 奥州平泉 の 藤原秀衡 を頼ります。 郷御前と子も一緒でした。 一行は、山伏や稚児に変装していたのだといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~ 最 期 ~ それから間もなく、 秀衡 が亡くなり、奥州藤原氏の家督は、次男の泰衡へと引き継がれました。 秀衡は「義経を主君として、頼朝の攻撃に供えるように」と遺言していたといいますが・・・ 頼朝の圧力に屈した泰衡は、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の 衣川館 を攻め、自刃に