常盤御前(ときわごぜん)は、近衛天皇の中宮・藤原呈子に仕えていたといわれています。
後に源義朝の側室となって、阿野全成(今若)、源義円(乙若)、源義経(牛若)を産みました。
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(京都市北区紫野)
京都市北区紫野にある常槃井は、常盤御前が化粧のために使用した井戸と伝えられています。
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1159年(平治元年)、平治の乱が勃発。
義朝が平清盛に敗れたことにより、常盤御前と3人の子は、大和国へと逃れていったのだといいます。
(清水寺)
伝説によれば、大和国へと逃れる前、常盤御前は、清水寺の千手観音に3人の子の無事を祈願したのだと伝えられています。
その千手観音を安置しているのが子安塔。
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大和に逃れた常盤御前と3人の子たち。
しかし、都に残った常盤御前の母が捕えられてしまいます。
母を助けるか、三人の子を落ち延びさせるのか・・・
悩んだ末、清盛の下へ自首することを決めた常盤は、1160年(永暦元年)2月、雪の降る中を都へと戻って行きます。
(京都市東山区本町)
寶樹寺は、常盤御前ゆかりの薬師如来像を安置する寺。
伝説によると・・・
都へ戻ってきた常盤御前と3人の子は、一ノ橋にさしかかったところで、雪を避けるため松の木の下で休息をとったそうです。
そして、再び歩き出そうとすると・・・
守り本尊としていた薬師如来が次のように告げたのだといいます。
「私をこの地に置いて行きなさい」
その後、常盤と三人の子たちは救われたのだと伝えられています。
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清盛のもとへ出頭した常盤御前。
ドラマ等で知られた話では・・・
三人の子を救うため、清盛に身をまかせたともいいますが・・・
いずれにしても、三人の子は救われました。
義朝の嫡男・頼朝が助かっているのですから、当然のことだったのでしょう。
今若(全成)は出家して醍醐寺へ。
乙若(義円)も出家して園城寺へ。
幼かった牛若(義経)は、11歳になってから鞍馬寺に預けられましたが、15歳のときに藤原秀衡を頼って奥州へと下っています。
その間、常盤御前は一条長成と再婚したようです。
のちに頼朝と対面した義経は「継父一條長成の世話によって、出家をして、鞍馬に登った」と語っています。
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時は流れ・・・
1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵。
全成、義円、義経も頼朝の指揮下に入ります。
ただ、義円は、1181年(治承5年)4月25日、墨俣川の戦いで討死してしまいます。
全成は、1180年(治承4年)11月19日、武蔵国長尾寺を与えられ、いつのことなのかは不明ですが、頼朝の妻・北条政子の妹と結婚しています。
その後の源平の戦いで活躍したのは義経ですが・・・
義経は、無断任官等によって頼朝から勘当され、次第に対立するようになって行きます。
やがて、頼朝から追われる身となってしまいました。
そして、1186年(文治2年)6月6日、常盤御前が一条河崎観音堂の辺りで捕えられます。
常盤御前は、義経が岩倉(現在の京都市左京区)に潜伏していると証言したのだといいますが、すでに義経の姿はなかったそうです。
『吾妻鏡』には「捕らえた常盤を鎌倉に護送するかどうか」が記されているようですが、どうも鎌倉に送られてきたという事実はないようです。
ただ、鎌倉には「常盤」という地名があります。
鎌倉の「常盤」には、「常盤御前の墓」と呼ばれるやぐらや、「常盤御前の硯水」と呼ばれる井戸もあったそうです。
単なる伝説に過ぎないものなのかもしれませんが・・・。
1186年(文治2年)6月6日の『吾妻鏡』の記述を最後に常盤御前の消息は不明です。
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(京都市右京区常盤)
源光寺は、常盤地蔵とも呼ばれる臨済宗天龍寺派の尼寺。
常盤御前は、源光寺のある常盤の地で生まれ、晩年には生地に戻って庵を結び余生を送ったのだと伝えられています。
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