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鎌倉:光則寺のウサギゴケ2017/09/08

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アジサイ の頃から咲き始める ウサギゴケ 。 このウサギゴケの鉢は今年の6月末から置かれているもの。 以前からあったウサギゴケはちょっとした事故で・・・ しかし、奥さんが皆さんの期待に応えて取り寄せてくれました。 届いたばかり頃は2つ3つほどしか咲いていませんでしたが、今はたくさん咲いています。 光則寺 https://www.yoritomo-japan.com/page136kosokuji.htm

面掛衆~御霊神社の面掛行列~

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神奈川県の無形民俗文化財に指定されている 御霊神社 の 面掛行列 。 面掛衆の面は、爺・鬼・異形・鼻長・烏天狗・翁・火吹男(ひょっとこ)・福禄・阿亀・女(とりあげ)の十面。 御霊神社は 鎌倉・江の島七福神 の一つです。 阿亀のお腹をさすると安産になる、子どものいない夫が阿亀の役を務めると子宝に恵まれる、といった言い伝えがあるようです。 天女姿をしています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鶴岡八幡宮祭礼行列之図 御霊神社 の 面掛行列 は、 鶴岡八幡宮 の放生会の面掛行列に倣ったものと伝えられています。 かつては、山ノ内 八雲神社の祭礼 行列にも面掛行列があったようです。 上の画像は 東京国立博物館 の 「鶴岡八幡宮祭礼行列之図」 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 御霊神社 https://www.yoritomo-japan.com/page136gorei.htm 御霊神社 の 例大祭 は、祭神の 鎌倉権五郎景政 の命日(9月18日)に行われます。 面掛行列 は14:40頃から。

日蓮が書いた手紙『土籠御書』~龍ノ口法難:光則寺~

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1271年(文永8年)9月12日、 日蓮 は、幕府や諸宗を批判したことで平頼綱(北条時宗の執事)によって捕えられ、 龍ノ口刑場 に護送されました( 龍ノ口法難 )。 その時、弟子の日朗も捕らえられ、宿谷光則がその監視の任に当たることになりました。 日朗の土牢 捕らえられた日朗は、 光則寺 裏山に残されている 土牢 に幽閉されたのだと伝えられています。 一方、 龍ノ口刑場 に送られた 日蓮 は、佐渡流罪となります。 10月9日、佐渡へと旅立つ日蓮が幽閉されている日朗に書いた手紙が『土籠御書』。 土牢御書の碑 土牢の前に建てられた土牢御書の碑には日蓮の手紙の内容が刻まれています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 『土籠御書』 日蓮は明日佐渡の国へまかるなり 今夜のさむきに付ても牢のうちのありさま思いやられて痛わしくこそ候え あわれ殿は法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば 父母六親一切衆生をもたすけ給うべき御身也 法華経を余人のよみ候は口ばかり言ばかりはよめども心はよまず 心はよめども身によまず色心二法共にあそばされたるこそ貴く候え 「天諸童子以為給使刀杖不加毒不能害」と説かれて候えば別の事はあるべからず 牢をばし出させ給い候わばとくとくきたり給へ見たてまつり見えたてまつらん 恐々謹言 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 日蓮 の手紙には、牢を出たら佐渡に遊びに来るように書かれていますが、日朗は8度も佐渡を訪れたのだとか。 1274年(文永11年)2月14日に赦免されたときも、赦免状を携えて佐渡に渡ったそうです。 光則寺 日蓮 が赦免された年、日朗の監視役をしていた宿谷光則は自邸を寺としました。 それが 光則寺 。 開山は日朗。 宿谷光則は、弟子の身を案ずる 日蓮 に感動して帰依したのだと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉時代の狩装束~流鏑馬神事~

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流鏑馬神事での射手の衣装は「あげ装束」。 立烏帽子(たてえぼし)、綾藺笠(あやいがさ)を被り、鎧直垂に射籠手を着け、夏鹿毛の行騰(むかばき)・太刀を履き、箙(えびら)を負って弓矢を持つもの。 鎌倉時代の狩装束です。 9月14日~16日は 鶴岡八幡宮例大祭 。 最終日には 小笠原流流鏑馬 が奉仕されます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆