1271年(文永8年)9月12日、日蓮は、幕府や諸宗を批判したことで平頼綱(北条時宗の執事)によって捕えられ、龍ノ口刑場に護送されました(龍ノ口法難)。
その時、弟子の日朗も捕らえられ、宿谷光則がその監視の任に当たることになりました。
捕らえられた日朗は、光則寺裏山に残されている土牢に幽閉されたのだと伝えられています。
一方、龍ノ口刑場に送られた日蓮は、佐渡流罪となります。
10月9日、佐渡へと旅立つ日蓮が幽閉されている日朗に書いた手紙が『土籠御書』。
土牢の前に建てられた土牢御書の碑には日蓮の手紙の内容が刻まれています。
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『土籠御書』
日蓮は明日佐渡の国へまかるなり
今夜のさむきに付ても牢のうちのありさま思いやられて痛わしくこそ候え
あわれ殿は法華経一部を色心二法共にあそばしたる御身なれば 父母六親一切衆生をもたすけ給うべき御身也
法華経を余人のよみ候は口ばかり言ばかりはよめども心はよまず
心はよめども身によまず色心二法共にあそばされたるこそ貴く候え
「天諸童子以為給使刀杖不加毒不能害」と説かれて候えば別の事はあるべからず
牢をばし出させ給い候わばとくとくきたり給へ見たてまつり見えたてまつらん
恐々謹言
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日蓮の手紙には、牢を出たら佐渡に遊びに来るように書かれていますが、日朗は8度も佐渡を訪れたのだとか。
1274年(文永11年)2月14日に赦免されたときも、赦免状を携えて佐渡に渡ったそうです。
日蓮が赦免された年、日朗の監視役をしていた宿谷光則は自邸を寺としました。
それが光則寺。
開山は日朗。
宿谷光則は、弟子の身を案ずる日蓮に感動して帰依したのだと伝えられています。
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