源頼朝 の挙兵を助けた 北条時政 は、平直方を祖とする桓武平氏といわれ、時政の父は伊豆の豪族北条時方(または時兼)といわれています。 娘の 政子 は頼朝に嫁ぎました。 さて、時政は「北条四郎」と呼ばれていました。 では、時政に太郎、次郎、三郎といった兄がいたのでしょうか。 だとすると時政は四男ということでしょうか。 こんな説があります。 ~「四郎」は、北条氏の家督を継ぐ者に付けられた呼称である。~ 北条氏の系図は定かではありませんが、一般的に伝えられる聖範( 伊豆山権現 の僧)→時家→時方または時兼→時政と続く系統は、どうも皆「四郎」を名乗っていたようです。 時政の跡を継いだ 義時 も「四郎」を名乗っていました。 ただ、疑問なのは 義時 には「三郎」と呼ばれた兄 宗時 がいました。 宗時は 石橋山の戦い で討死していますが、生きていたとしても北条の家督を継ぐ者ではなかったのでしょうか・・・? 様々な書物で時政の嫡男と記されているようですが・・・ 参考までに、 義時 の後に続く 泰時 、時氏は「四郎」を名乗っていないようですが、 経時 は「四郎」を名乗っています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条宗時の墓 1180年(治承4年)8月24日、 石橋山の戦い での敗北後、時政と義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとしたようです。 宗時は、平井郷を目の前にして 伊東祐親 軍に討たれてしまったようです。 時政が甲斐国を目指したことについては、武田などの源氏を味方につけるためで、源頼朝が安房に渡った後にも時政は甲斐国へ派遣されていますので、何となくわかるような気がしますが・・・ まさか、「負けた頼朝を見捨てようと考えていた」ということはないでしょう。 しかし・・・ 宗時は何故、伊豆国へ戻っていったのでしょう・・・ 宗時の墓があるのは函南町大竹。 川を渡れば平井。 もう少しで北条の地という場所です。 死を覚悟していたのでしょうか・・・ 伊豆国経由で甲斐国へと向かう予定だったということも考えられますが、父や弟と別行動をとったのは何故なのでしょう。 どちらかが生き残ればという考えも浮かびますが・・・