源頼朝の挙兵を助けた北条時政は、平直方を祖とする桓武平氏といわれ、時政の父は伊豆の豪族北条時方(または時兼)といわれています。
娘の政子は頼朝に嫁ぎました。
さて、時政は「北条四郎」と呼ばれていました。
では、時政に太郎、次郎、三郎といった兄がいたのでしょうか。
だとすると時政は四男ということでしょうか。
こんな説があります。
~「四郎」は、北条氏の家督を継ぐ者に付けられた呼称である。~
北条氏の系図は定かではありませんが、一般的に伝えられる聖範(伊豆山権現の僧)→時家→時方または時兼→時政と続く系統は、どうも皆「四郎」を名乗っていたようです。
時政の跡を継いだ義時も「四郎」を名乗っていました。
ただ、疑問なのは義時には「三郎」と呼ばれた兄宗時がいました。
宗時は石橋山の戦いで討死していますが、生きていたとしても北条の家督を継ぐ者ではなかったのでしょうか・・・?
様々な書物で時政の嫡男と記されているようですが・・・
参考までに、義時の後に続く泰時、時氏は「四郎」を名乗っていないようですが、経時は「四郎」を名乗っています。
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1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いでの敗北後、時政と義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとしたようです。
宗時は、平井郷を目の前にして伊東祐親軍に討たれてしまったようです。
時政が甲斐国を目指したことについては、武田などの源氏を味方につけるためで、源頼朝が安房に渡った後にも時政は甲斐国へ派遣されていますので、何となくわかるような気がしますが・・・
まさか、「負けた頼朝を見捨てようと考えていた」ということはないでしょう。
しかし・・・
宗時は何故、伊豆国へ戻っていったのでしょう・・・
宗時の墓があるのは函南町大竹。
川を渡れば平井。
もう少しで北条の地という場所です。
死を覚悟していたのでしょうか・・・
伊豆国経由で甲斐国へと向かう予定だったということも考えられますが、父や弟と別行動をとったのは何故なのでしょう。
どちらかが生き残ればという考えも浮かびますが・・・
※時政はこの日のうちに頼朝と合流しています。
参考までに、『吾妻鏡』によると・・・
源頼朝は石橋山の戦いで討死した者に対して弔いをしているようですが、宗時に対するものは記録されていないようです。
時政は1202年(建仁2年)に伊豆国を訪れて宗時の菩提を弔ったようですが・・・
石橋山の戦いから20年以上も経ってからのことです。
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