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箱根神社の矢立のスギ(杉)

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矢立の杉 (かながわの名木100選) 801年(延暦20年)、征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麻呂は箱根権現に参詣。 この杉に矢を献納して武運長久を祈願して、蝦夷征伐に成功したのだといいます。 また、1051年(永承6年)、前九年の役に出陣した源頼義もこれに倣い矢を献納したのだと伝えられています。 箱根神社 https://www.yoritomo-japan.com/hakonegongen.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

北条時政の嫡男は誰?~四郎という名と石橋山の戦いと宗時の死~

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源頼朝 の挙兵を助けた 北条時政 は、平直方を祖とする桓武平氏といわれ、時政の父は伊豆の豪族北条時方(または時兼)といわれています。 娘の 政子 は頼朝に嫁ぎました。 さて、時政は「北条四郎」と呼ばれていました。 では、時政に太郎、次郎、三郎といった兄がいたのでしょうか。 だとすると時政は四男ということでしょうか。 こんな説があります。 ~「四郎」は、北条氏の家督を継ぐ者に付けられた呼称である。~ 北条氏の系図は定かではありませんが、一般的に伝えられる聖範( 伊豆山権現 の僧)→時家→時方または時兼→時政と続く系統は、どうも皆「四郎」を名乗っていたようです。 時政の跡を継いだ 義時 も「四郎」を名乗っていました。 ただ、疑問なのは 義時 には「三郎」と呼ばれた兄 宗時 がいました。 宗時は 石橋山の戦い で討死していますが、生きていたとしても北条の家督を継ぐ者ではなかったのでしょうか・・・? 様々な書物で時政の嫡男と記されているようですが・・・ 参考までに、 義時 の後に続く 泰時 、時氏は「四郎」を名乗っていないようですが、 経時 は「四郎」を名乗っています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条宗時の墓 1180年(治承4年)8月24日、 石橋山の戦い での敗北後、時政と義時は箱根の湯坂道を経て甲斐国へ向かおうとし、宗時は土肥から桑原(函南町)を経て平井郷(函南町)へ向かおうとしたようです。 宗時は、平井郷を目の前にして 伊東祐親 軍に討たれてしまったようです。 時政が甲斐国を目指したことについては、武田などの源氏を味方につけるためで、源頼朝が安房に渡った後にも時政は甲斐国へ派遣されていますので、何となくわかるような気がしますが・・・ まさか、「負けた頼朝を見捨てようと考えていた」ということはないでしょう。 しかし・・・ 宗時は何故、伊豆国へ戻っていったのでしょう・・・ 宗時の墓があるのは函南町大竹。 川を渡れば平井。 もう少しで北条の地という場所です。 死を覚悟していたのでしょうか・・・ 伊豆国経由で甲斐国へと向かう予定だったということも考えられますが、父や弟と別行動をとったのは何故なのでしょう。 どちらかが生き残ればという考えも浮かびますが・・・

鶴岡八幡宮祭礼行列之図

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江戸時代の 鶴岡八幡宮 の祭礼行列の様子。 画像は 東京国立博物館 のページより。 面掛行列 坂ノ下 御霊神社 の 面掛行列 は、 鶴岡八幡宮 の 放生会 の面掛行列に倣ったものと伝えられています。 かつては、山ノ内 八雲神社 の 祭礼行列 にも面掛行列があったようです。 神輿 左から応神天皇・比売神・神功皇后 鶴岡八幡宮の神輿 は本宮三基、若宮四基の計七基。 桃山期から江戸初期頃の形態的特徴をもったもので神奈川県の有形民俗文化財に指定されています。 9月14日~16日 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 2022年の大河ドラマ

江の島灯籠フィナーレ~影絵の夜~

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8月最後の土日は影絵の夜。 江の島シーキャンドル下特設ステージで「天女と五頭流」の影絵が上映されます。 江の島灯籠 8月1日~31日 江の島 https://www.yoritomo-japan.com/enosima.htm 夏休み鎌倉計画!

鎌倉大仏とサルスベリ2017/08/20

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与謝野晶子歌碑 かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな 長与専斎の碑 鎌倉の海水浴場は、長与専斎が「海水浴に最適の地」と称したことにより開かれました。 鎌倉大仏 https://www.yoritomo-japan.com/page136kotokuin.htm 夏休み鎌倉計画! 8月21日(月)~8月27日(日)