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鎌倉:妙本寺の山号と寺号

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妙本寺 は、源頼朝の重臣・比企能員の屋敷があった場所。 比企氏の滅亡後、能員の末子・ 能本 が法華堂を建立し一族の菩提を弔ったのが始まりとなります。 山号の「長興」は能員の法名 寺号の「妙本」は能員夫人の法名 本堂 祖師堂へと続く参道 総門の比企能員邸址碑 ・・・・・・・・・・・ 妙本寺 https://www.yoritomo-japan.com/page043myohonji.htm

ぼたもち寺と呼ばれる鎌倉:常栄寺

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1271年(文永8年)9月12日、鎌倉幕府に捕えられた 日蓮 は、裸馬に乗せられて 龍ノ口刑場 へと護送されていきます。 桟敷の尼は、そんな 日蓮 に「胡麻のぼたもち」を捧げたといいます。 その後、 日蓮 が奇跡的に処刑を免れたことから「頸つぎのぼたもち」という逸話が生まれます。 常栄寺 は、そんな桟敷の尼の伝説が残された地に建てられました。 そのため「ぼたもち寺」と呼ばれています。 常栄寺 の裏山は、 源頼朝 が千羽鶴の放生会を観覧するために桟敷(展望台)を設けたという場所だったといいます。 桟敷の尼の「桟敷」は、そのことに由来しています。 常栄寺の本堂の左側には2基の五輪塔が並んでいますが、桟敷の尼夫婦の墓です。 胡麻のぼたもち 9月12日は 龍口法難会 。常栄寺ではご難除ぼたもちの供養接待があります。 ・・・・・・・・・・・ 常栄寺 https://www.yoritomo-japan.com/page043jyoeiji.htm

鶴岡八幡宮

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鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮 は、1063年(康平6年)に 源頼義 が京都の 石清水八幡宮 を由比郷鶴岡に勧請したことに始まります。 1180年(治承4年)、 源頼朝 が鎌倉に入ると現在地に遷座され、1191年(建久2年)には大臣山の中腹に 上宮 (本宮)が建立されました。 祭神は応神天皇、比売神、神宮皇后。 上宮楼門 現在の 上宮 は、徳川十一代将軍家斉によるっ再建。国の重要文化財に指定されています。 1289年(正応2年)に鎌倉を訪れた後深草院二条は、『とはずがたり』に「海をはるかに見渡すことができるので、 石清水八幡宮 より見どころがある」と書いています。 今は一の鳥居の先にわずかに青い海を見ることができる程度ですが、鎌倉時代は素晴らしい眺めだったことでしょう。 ・・・・・・・・・・・ 鶴岡八幡宮 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm

鎌倉:巽神社~坂上田村麻呂創建の社~

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巽神社 巽神社 は、801年(延暦20年)、坂上田村麻呂が葛原ヶ岡に創建したのを始まりとすると伝えられています。 いつの頃かわかりませんが現在地に遷座され 壽福寺 の鎮守として崇められました。 壽福寺の巽の方角にあることから巽荒神と呼ばれたそうです。 手洗石 (江戸時代の銘) 社殿前の石灯籠にも江戸時代の銘 諏訪社 猿田彦大神 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ アテルイ・モレの碑 (清水寺) 801年(延暦20年)、坂上田村麻呂は蝦夷討伐を行い、翌年には、蝦夷の指導者のアテルイとモレを降伏させました。 達谷窟毘沙門堂 (平泉) 平泉 の 達谷窟 は、坂上田村麻呂が討ち取った悪路王と赤頭が砦を構えていた岩屋。  悪路王は、蝦夷の指導者・アテルイだとする説があります。  今小路 巽神社の前の道は 今小路 。 『新編鎌倉志』には、 鎌倉十橋 の 勝ノ橋 から 巽荒神社 までの道と書かれているようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 巽神社 https://www.yoritomo-japan.com/page137tatumijinjya.htm

鶴岡八幡宮の大銀杏2015/08/15

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平成24年に出てきた芽。 大きくなりました。 昨年は朱色の柵を越えました。 今年はさらに高く。 幹の根元でも。 ・・・・・・・・・・・ 大銀杏再生の記録 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/ooityo-hatiman2.htm

由比ヶ浜の砂像・・・鎌倉の海のまもり鳩

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夏場だけの橋 鳩の砂像は、この橋の袂にあります。 昨日、茅ヶ崎沖のえぼし岩付近でサメの群れが発見されたため、今日の鎌倉の海は遊泳禁止。 今日の鎌倉の海は青くてきれいでした。 ・・・・・・・・・・・ 鎌倉の海水浴場 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/umi-natu.htm