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鶴岡八幡宮のヒガンバナ小路2013/09/28

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鶴岡八幡宮 の 神苑ぼたん庭園 の裏側の横小路に咲く ヒガンバナ 。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鎌倉のヒガンバナ

鎌倉:天園ハイキングコースからの景色2013/09/28

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天園ハイキングコース は 建長寺 から 瑞泉寺 までの尾根道。 半僧坊大権現の富士見台から 半僧坊大権現の見晴台から 勝上献山頂から 勝上献山頂から 十王岩から 大平山 大平山山頂から 大平山山頂から 大平山から 大平山 峠の茶屋 峠の茶屋から 天園の見晴台から 天園の見晴台から 天園の見晴台から ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉の古道

藤沢市民祭

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北条時頼ゆかりの最明寺・・・大井町

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最明寺 大井町の 最明寺 は、源延が松田山に建てた西明寺を前身としているといいます。 源延は、 源頼朝 が帰依した 伊豆山権現 の覚淵の弟だといいます。 西明寺は、 北条時頼 の信仰もあって鎌倉時代には繁栄しましたが、室町時代には衰退し、現在の地に移されて再興されたといいます。 伝えられている肖像彫刻は 北条時頼 のものといわれ、現在、鎌倉国宝館で開催されている 「特別展:北条時頼とその時代」 で拝観することができます。 また、源延が持っていたという「往生要集」の写本は国の重要文化財に指定されています。 相模善光寺堂 本堂 北条時頼坐像 最明寺 https://www.yoritomo-japan.com/saimyoji-ooimati.htm

源頼朝が帰依した伊豆山権現の覚淵

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『吾妻鏡』によると、 源頼朝 は、 挙兵 前の1180年(治承4年)7月5日、 伊豆山権現 の文陽房覚淵を 北条屋敷 に呼び出しています。 頼朝 は、 挙兵 前に法華経を千回読むつもりでいたようですが、それを達成することが難しくなりました。 そこで、「たとえば八百回読んだとしたら功徳をつむことはできるのか?」 と覚淵に訪ねたといいます。 すると覚淵は「八百回でもご利益はあるでしょう」と答えたといいます。 伊豆山神社 伊豆山神社 は「伊豆山権現」・「走湯権現」とも呼ばれ、 源頼朝 や 北条政子 が崇敬した神社。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 8月17日、頼朝は挙兵し、伊豆国の目代 山木兼隆 を討ちます。 兼隆 を討ち取ったのは佐々木盛綱と 加藤景廉 でした。 そして、この 加藤景廉 と覚淵は兄弟だといわれています。 その後、覚淵は 北条政子 と大姫を匿い、 頼朝 が 石橋山 で敗れると、二人を 秋戸郷 に逃しました。 また、覚淵と 加藤景廉 の父景員は、箱根山中で出家し、 伊豆山権現 に入ったといいます。 般若院 (熱海市) 伊豆山権現 の別当寺として栄えた 般若院 は、覚淵が創建した密厳院を前身としているといいます。 密蔵院は関東護持の祈祷所だったといいますが、豊臣秀吉の小田原攻めの際に焼けてしまったといいます。 最明寺 (大井町) 大井町にある 最明寺 は、源延が松田山に建てた西明寺を前身としているといいますが、源延は頼朝の信任を得て 伊豆山権現 の別当となっています。 この源延も覚淵と 加藤景廉 の兄弟だといいます。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

お十夜と伊勢貞国・・・京都:真如堂・鎌倉:光明寺

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「お十夜」は、1431年(永享4年)、伊勢貞国が 真如堂 に籠もったことから始まります。 この世の無常を感じた貞国は、三日三晩、 真如堂 に参籠して、満願の暁には出家することを考えていました。 すると、貞国の夢に僧が現れ、「阿弥陀を信じるのなら出家するのは三日待て」と告げます。 そして、その三日後、足利義教に仕えていた兄貞経が失脚させられ吉野に謹慎、貞国があとを継ぐことになりました。 夢告がなかったら、自分は出家してしまい、兄の跡を継ぐどころか家が絶えてしまうところでした。 阿弥陀さまに感謝した貞国は、七日七晩重ねて参籠したといいます。 合わせて十日十晩の参籠となります。 これが「お十夜」の始まりだと伝えられています。 ※伊勢貞国は室町幕府の政所執事を務めた人物です。戦国大名北条早雲は孫にあたります。 真如堂 のちの1495年(明応3年)、後土御門天皇の勅命により鎌倉の 光明寺 で 「お十夜」 が始められ、浄土宗の寺院に広まっていきました。 光明寺のお十夜 光明寺 では、10月12日から15日まで、盛大な法要が営まれます。 真如堂 のお十夜は、11月5日から15日まで(十日十夜別時念仏会)。 ・・・・・・・・・・・・・ 光明寺