鎌倉時代の大寺院は武装した多くの僧兵をかかえ、強大な勢力を誇っていたため、朝廷もその対策には苦慮していました。 源頼朝 も 興福寺 が支配していた大和国に守護を置くことはできませんでした。 『吾妻鏡』によれば・・・ 1236年(嘉禎2年)10月2日、南都の僧兵が蜂起し、城郭を構えていることが判明します。 これに対して 北条泰時 は、大和国に「これまで置くことの出来なかった守護」を設置し、僧兵の荘園には「地頭」を設置して鎮圧しました。 ※翌11月14日には、静かにおさまったことから、大和国の守護・地頭を止めています。 興福寺 興福寺 は、藤原氏の氏寺として創建された寺。 多くの僧兵を抱え、その強大な力で大和国を支配していました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ この事件より前、1235年(文暦2年)5月23日には、 石清水八幡宮 と 興福寺 が、薪と大住の両庄の用水問題で争いを起こしていました。 泰時 は、この問題に 六波羅探題 を介入させています。 石清水八幡宮 また、さらに遡って、1235年(文暦2年)正月27日、 泰時 は鎌倉中の僧徒の武装を禁止しています。 この頃、鎌倉の寺社にも僧兵がいたということなのでしょう。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 鎌倉との繋がりを求めて。