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鎌倉の紅葉:東勝寺橋2011/12/17

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東勝寺橋 付近の紅葉の様子です。 「東勝寺橋ひぐらし公園」の紅葉 滑川 東勝寺橋 宝戒寺橋から見た 東勝寺橋

鎌倉:妙本寺の紅葉・黄葉2011/12/17

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妙本寺 では、 二天門 前のカエデがやっと色づき始めました。 (※朝早かったので日が当たっていません。日が当たっていればもっときれいかと思います。) 祖師堂 横のカエデもまだまだこれからです。 イチョウはそろそろ終盤です。 イチョウの落葉 鐘楼周辺のカエデは、かなりきれいに染まっています。 鎌倉:紅葉・黄葉の名所 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/koyo-kamakura.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

源頼朝を饗応する鎌倉幕府の正月行事・・・垸飯

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御所で将軍を饗応する行事を「垸飯」(おうばん)といいます。 特に正月に行われる饗応を「正月垸飯」と呼んだそうです。 「椀飯」とも書かれるようですし、「大盤振る舞い」という言葉の語源ともなったようです。 饗応の儀式は、主従関係を再確認するためのもので、将軍と御家人が同席して飲食をすることで、その結び付きをより強固なものしていったといわれています。 『吾妻鏡』によれば・・・ 1180年(治承4年)12月20日、 源頼朝 は新造された御所で 三浦義澄 の「垸飯」(おうばん)を受けています。 (参考: 源頼朝の新亭造営・・・大倉幕府 ) その際、「御弓始」が行われ射手に次の者が選ばれました。 一番   下河辺行平 対  愛甲季隆 二番   橘公忠    対 橘公成 三番    和田義盛   対 工藤行光 その後、 頼朝 は「御行始」(おなりはじめ)として 安達盛長邸 を訪れています。 「御行始」というのは、将軍が有力御家人の邸宅を訪問し、饗応を受ける行事のことです。 除魔神事 「除魔神事」 は、源頼朝が幕府において「御的始」「御弓始」と称して行った武家の事始めを起源としています。 ~正月垸飯~ 「正月垸飯」は、正月3が日に行われ、有力御家人が日替わりで担当しました。 「垸飯」を担当した者は、その後の「御行始」に同行することができます。 ~養和元年の正月垸飯~ 1181(養和元年)正月元旦の「垸飯」は、 千葉常胤 が担当しています。その際には3尺の鯉が献上されています。 ~建久2年の正月垸飯~ 頼朝 が上洛をした翌1191年(建久2年)正月元旦も 千葉常胤 の担当ですが、右大将への昇進があったので、特に豪華な饗応だったようです。 贈物としては、次の物があげられています。 千葉常胤 ・・・剣 千葉胤正・・・弓箭 相馬師常 ・・・行縢(むかばき) 千葉胤盛・・・砂金 千葉胤頼・・・鷲羽(箱入り) その他、千葉一族によって馬5頭が献上されています。 翌2日は、 三浦義澄 の担当です。 岡崎義実 が弓箭、和田宗実が行騰、三浦義連が砂金、比企能員が鷲羽を献上し、 三浦一族 らによって馬が献上されています。 翌3日は、小山朝政でした。 下河

足利尊氏・直義兄弟と鎌倉

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1333年(元弘3年)12月14日、 足利直義 が関東を統治するため、 後醍醐天皇 の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ります。 直義 は、 足利尊氏 の弟。 鎌倉幕府の滅亡後、鎌倉には 尊氏 の嫡子千手王(のちの二代将軍義詮)がとどまっていましたが、以後、 直義 に支えられながら、のちの鎌倉府の基礎を築いていくことになります。 浄光明寺 扇ヶ谷の 浄光明寺 は、成良親王の祈願所となりました。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~護良親王の配流~ 1334年(建武元年)11月15日、京都では 尊氏 と 後醍醐天皇 の皇子 護良親王 が対立し、護良親王は捕らえられ、鎌倉へ流されました。 直義 に身柄を預けられた 護良親王 は、二階堂薬師堂ヶ谷の東光寺(現在の鎌倉宮付近)に幽閉されたといいます。 護良親王の土牢 (鎌倉宮) 護良親王 は、この土牢に幽閉されたと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~中先代の乱~ 1335年(建武2年)、北条高時の遺児時行が諏訪頼重に担がれて挙兵し、各地で足利軍を撃破します( 中先代の乱 )。 7月22日、 直義 自らも出陣しますが敗れ、成良親王と義詮とともに鎌倉を逃れています。 その際、 直義 は東光寺に幽閉していた 護良親王 を淵辺義博に命じて殺害させました。 時行は、7月25日に鎌倉に入っています。 矢拾地蔵 (浄光明寺) 直義の守護仏といわれる地蔵像 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~足利尊氏の東下~ 鎌倉を逃れた 直義 は、8月2日、成良親王・義詮とともに三河国矢作宿に到着し、ここで成良親王を京都へ返しています。 その間、京都では、時行が反乱を起こしたとの報告を受けた 尊氏 が、時行討伐の許可を後醍醐天皇に求めています。 そして、「総追捕使」と「征夷大将軍」の官職を要求しました。 この2つの官職は、 源頼朝 も拘った官職で、総追補使は一定の地域を一定の権限で支配でき、征夷大将軍は、 頼朝 以来、武家の棟梁であることを象徴する官職となっていました。 尊氏 の行動は、「武家政権の樹立」を考えてのものといえます。 しかし、後醍醐天皇は 尊氏 の要求を退け、8月1日、成良親王を征夷大将軍に任命してしまいます。

正月の縁起物:センリョウとマンリョウ

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センリョウ(千両)とマンリョウ(万両)。 ともに冬に実をつけ正月の縁起物とされています。 常楽寺 のセンリョウ 瑞泉寺 のマンリョウ 報国寺 のマンリョウ 葉の上に実をつけるのがセンリョウ(千両)。 葉の下に実をつけるのがマンリョウ(万両)。 千両と万両とでは、かなりの違いがあるようですが・・・ 一説には、センリョウの実は上向きに、マンリョウの実は下向きにぶら下がるようにしてつくので、「マンリョウの実の方が重たい」という発想からこのような名になったのだといいます。 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

源頼朝が新亭に入る~武家の都鎌倉の誕生~

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『吾妻鏡』によれば・・・ 1180年(治承4年)12月12日、 源頼朝 は新造された御亭( 大倉御所 )に移ります。 1180年(治承4年)10月6日、鎌倉に入った 頼朝 は、民家を仮の宿としていました。 10月15日には当座の建物として、山ノ内の首藤兼道邸が移築されていましたが、この日、大倉郷に新造の御所が完成したのです。 ※首藤邸がどこに移築されたのかは不明です。 御所の造営は、 大庭景義 の奉行によって10月9日から進められていました。 (参考: 源頼朝の新亭造営・・・大倉幕府 ) 大倉幕府跡碑 現在、 大倉幕府跡 の石碑が建てられている辺りが、 源頼朝 の御所があった場所です。 頼朝 の御所への入御に際しては、 頼朝 が鎌倉で最初に行った公式儀式「御移徒の儀」が執り行われています。 (参考: 源頼朝の新亭造営・・・大倉幕府 ) この儀式によって、「武家による新たな社会秩序が鎌倉の地に出来上がった」ということが、内外に宣伝されました。 この日、 上総広常 邸を発って御所に入った 頼朝 は、寝殿に上がり、侍所別当の 和田義盛 をはじめとする御家人311名が侍所に対座します。 そこで 頼朝 は 「鎌倉の主」 に推戴されています。 (参考: 東国の主君「鎌倉殿」 ) さて・・・ 『吾妻鏡』には、 頼朝 の御所が完成しただけでなく、御家人も鎌倉に宿館を構えたことが記されています。 311名もの御家人の館が鎌倉に建ち並んだということなのでしょう。 御家人とは・・・ 1180年(治承4年)8月17日、 頼朝 は 山木兼隆を襲撃 し、20日には 相模国へ進軍 します。 『吾妻鏡』は、このとき 頼朝 に従った武将46名を記しています。 その最後に、 「これ皆、将(頼朝)の恃む(頼む)ところなり、 各命を受け、家を忘れ、親を忘れる者」 と記されています。 「御恩と奉公」で成り立っていた 頼朝 と御家人との関係を表している記事かと思われます。 御家人311名が鎌倉に宿館を構えたということは、ただ単に、農漁村だった鎌倉に多くの建物が建ち並んだということではありません。 それぞれ自分の領地に館を構えている御家人が、鎌倉にも宿館を構えて 頼朝 に奉公する

鎌倉・江の島から見た富士山2011/12/10

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源氏山公園 (葛原ヶ岡) 源氏山公園 では 紅葉 と サザンカ が見頃です。 ★ 源氏山公園の紅葉・黄葉2011/12/10 ★ 源氏山公園のサザンカ2011/12/10 天園 獅子舞の紅葉 が見頃です。 紅葉を見ながら獅子舞の谷を登って、 天園 の見晴台から富士山を眺めながら一休みするのもいいかもしれません。 ★ 獅子舞の谷2011/12/10 江の島 江の島 では、 江の島シーキャンドルライトアップ が開催されています。 夕焼けを見て、暗くなったら 江の島シーキャンドル のライトアップとイルミネーションをお楽しみください。 ★ 江の島シーキャンドルライトアップ2011 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html