1180年(治承4年)12月12日、源頼朝は新造された御亭(大倉御所)に移ります。
1180年(治承4年)10月6日、鎌倉に入った頼朝は、民家を仮の宿としていました。
10月15日には当座の建物として、山ノ内の首藤兼道邸が移築されていましたが、この日、大倉郷に新造の御所が完成したのです。
※首藤邸がどこに移築されたのかは不明です。
御所の造営は、大庭景義の奉行によって10月9日から進められていました。
(参考:源頼朝の新亭造営・・・大倉幕府)
大倉幕府跡碑
現在、大倉幕府跡の石碑が建てられている辺りが、
源頼朝の御所があった場所です。
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頼朝の御所への入御に際しては、頼朝が鎌倉で最初に行った公式儀式「御移徒の儀」が執り行われています。
(参考:源頼朝の新亭造営・・・大倉幕府)
この儀式によって、「武家による新たな社会秩序が鎌倉の地に出来上がった」ということが、内外に宣伝されました。
この日、上総広常邸を発って御所に入った頼朝は、寝殿に上がり、侍所別当の和田義盛をはじめとする御家人311名が侍所に対座します。
そこで頼朝は「鎌倉の主」に推戴されています。
(参考:東国の主君「鎌倉殿」)
さて・・・
『吾妻鏡』には、頼朝の御所が完成しただけでなく、御家人も鎌倉に宿館を構えたことが記されています。
311名もの御家人の館が鎌倉に建ち並んだということなのでしょう。
御家人とは・・・
1180年(治承4年)8月17日、頼朝は山木兼隆を襲撃し、20日には相模国へ進軍します。
『吾妻鏡』は、このとき頼朝に従った武将46名を記しています。
その最後に、
「これ皆、将(頼朝)の恃む(頼む)ところなり、
各命を受け、家を忘れ、親を忘れる者」
と記されています。
「御恩と奉公」で成り立っていた頼朝と御家人との関係を表している記事かと思われます。
御家人311名が鎌倉に宿館を構えたということは、ただ単に、農漁村だった鎌倉に多くの建物が建ち並んだということではありません。
それぞれ自分の領地に館を構えている御家人が、鎌倉にも宿館を構えて頼朝に奉公するということです。
つまり、鎌倉に「武家の都」が誕生したということなのでしょう。
鶴岡八幡宮 |
その後の鎌倉は、鶴岡八幡宮が整備され、若宮大路が造営されるなど、政治都市として発展していくことになります。
※大倉御所(大倉幕府)は、1219年(承久元年)12月24日に焼失するまで政治の中心でした。