別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年12月14日水曜日

足利尊氏・直義兄弟と鎌倉


1333年(元弘3年)12月14日、足利直義が関東を統治するため、後醍醐天皇の皇子成良親王を奉じて鎌倉に入ります。

直義は、足利尊氏の弟。

鎌倉幕府の滅亡後、鎌倉には尊氏の嫡子千手王(のちの二代将軍義詮)がとどまっていましたが、以後、直義に支えられながら、のちの鎌倉府の基礎を築いていくことになります。


 浄光明寺

扇ヶ谷の浄光明寺は、成良親王の祈願所となりました。


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~護良親王の配流~

1334年(建武元年)11月15日、京都では尊氏後醍醐天皇の皇子護良親王が対立し、護良親王は捕らえられ、鎌倉へ流されました。

直義に身柄を預けられた護良親王は、二階堂薬師堂ヶ谷の東光寺(現在の鎌倉宮付近)に幽閉されたといいます。

 護良親王の土牢
(鎌倉宮)

護良親王は、この土牢に幽閉されたと伝えられています。


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~中先代の乱~

1335年(建武2年)、北条高時の遺児時行が諏訪頼重に担がれて挙兵し、各地で足利軍を撃破します(中先代の乱)。

7月22日、直義自らも出陣しますが敗れ、成良親王と義詮とともに鎌倉を逃れています。

その際、直義は東光寺に幽閉していた護良親王を淵辺義博に命じて殺害させました。

時行は、7月25日に鎌倉に入っています。


 矢拾地蔵
(浄光明寺)
直義の守護仏といわれる地蔵像


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~足利尊氏の東下~

鎌倉を逃れた直義は、8月2日、成良親王・義詮とともに三河国矢作宿に到着し、ここで成良親王を京都へ返しています。

その間、京都では、時行が反乱を起こしたとの報告を受けた尊氏が、時行討伐の許可を後醍醐天皇に求めています。

そして、「総追捕使」と「征夷大将軍」の官職を要求しました。

この2つの官職は、源頼朝も拘った官職で、総追補使は一定の地域を一定の権限で支配でき、征夷大将軍は、頼朝以来、武家の棟梁であることを象徴する官職となっていました。

尊氏の行動は、「武家政権の樹立」を考えてのものといえます。

しかし、後醍醐天皇は尊氏の要求を退け、8月1日、成良親王を征夷大将軍に任命してしまいます。

一方、尊氏は、翌8月2日、後醍醐天皇の許可を得ずに兵を率いて東下、これを聞いた後醍醐天皇は、尊氏を征東将軍に任命して、その行動を追認しています。


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東下した尊氏は、三河国で直義と合流し、8月19日には鎌倉を奪還しています。

時行は逃亡しますが、諏訪頼重は、勝長寿院で自害したと伝えられています。


 龍ノ口刑場跡

片瀬にある処刑場の跡

鎌倉を逃れた北条時行は、のちに捕らえられ片瀬で処刑されています。

実際には片瀬の刑場が何処にあったのかは不明のようです。










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~尊氏追討令~

後醍醐天皇は、尊氏が「鎌倉を奪還した」という報が届くと、勅使を送って「すみやかな上洛」を命じています。

また、武士への恩賞も「天皇自らが行う」ことを伝えたそうです。

尊氏は勅命に従うつもりでいたようですが、それをとめたのが直義だったといいます。

「後醍醐天皇と新田義貞の陰謀から逃れて、運良く関東に下ることができたのに、ふたたび適中に身を差し出す必要はない」

というのが理由だったようです。

そして、若宮大路の旧鎌倉将軍邸跡に新亭を構えています。

これは、後醍醐天皇に反旗を翻したことを行動をもって示したものともいえます。

しかし・・・

後醍醐天皇が尊氏追討令を出し、新田義貞を総大将とする追討軍が東下してくると、尊氏浄光明寺に蟄居してしまいます。

三河国矢作川が破られても起たず、直義がその救援に出陣していますが、直義も敗れてしまいます。

その危機の報を聞いた尊氏は、

「直義が命を落とすことがあれば、自分が生きているのも無益なこと」

として出陣を決意しています。

「ただし、天皇に弓を引く考えは毛頭ない」

という事だったようです。

後醍醐天皇の許可を得ず東下し、帰京命令に応じようとし、鎌倉に新亭を造営し、浄光明寺に蟄居と、尊氏の行動には、かなり複雑なものがあります。

後醍醐天皇を裏切るのか否か、かなり悩んだのでしょう。

1333年(元弘3年)に鎌倉幕府を裏切ってから、わずか2年後の事ですし・・・。



 浄光明寺

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~室町幕府成立~

その後、新田軍を破った尊氏は、翌年正月には上洛し、一時京都を追われますが、6月14日には、持明院統の光厳上皇を奉じて入京します。

そして、11月7日には「建武式目」を制定して室町幕府が成立させています。

1338年(延元3年・暦応元年)には、尊氏は征夷大将軍、直義は左兵衛督に任じられます。

直義は、尊氏とともに政治を行い「両将軍」と称されたといいます。


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~観応の擾乱~

しかし、1348年(正平3年・貞和4年)頃から、軍事を任せれていた高師直と政務を任せれていた直義の対立が激化、観応の擾乱へと発展していきます。

最終的には、尊氏直義の直接対決となり、直義は敗れ、1352年(正平7年・文和元年)正月5日、鎌倉で尊氏直義の和睦が成立しています。

しかし、それから間のない2月26日、直義は鎌倉の延福寺で急逝しました。尊氏が毒殺したのではないかとも説もあります。

 足利直義の墓
(浄妙寺)







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 鎌倉手帳

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