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夏・・・江ノ島

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江ノ島 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/enosima.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

アオノリュウゼツラン・・・江ノ島の世紀の花

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江ノ島 の サムエル・コッキング苑 で咲いたアオノリュウゼツラン。 メキシコ原産の植物で、種が芽吹いてから30年から40年かけて花を咲かせるといわれています。 江ノ島 に多くの株があって、数年おきに開花しているそうです。 (前回は2008年、前々回は2005年) たくさんある株のなかの一つから、茎(花柱)が高く伸びています。 その茎から花が咲きます。 開花するまでに100年もかかるという噂もあったため、「センチュリー・プラント」とも呼ばれているそうです。 開花後は、珠株をたくさん残して、本株は枯れるそうです。 江ノ島 https://www.yoritomo-japan.com/enosima.htm サムエル・コッキング苑 https://www.yoritomo-japan.com/enosima-samueru.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html

道元の鎌倉教化

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日本における曹洞宗の開祖道元は、1247年(宝治元年)8月3日、永平寺を発って鎌倉に向かいました。 檀那俗弟子の説法のためといわれています。 しかし、その檀那俗弟子とは・・・ 北条時頼 なのか?永平寺を建てたという 波多野義重 なのか?ということははっきりとしていないようです。 道元鎌倉御行化顕彰碑 鎌倉での道元は、事実上の最高権力者、執権 北条時頼 の教化に努力します。 道元のなかには、教化することで「日本の政治を変える」という考えがあったのだといわれています。 しかし・・・ 道元の思い・・・「仏法とは何か」ということは 時頼 には伝わらなかったのでしょうか・・・? 時頼 は、寺を建てて道元を開山に迎えようとしますが、道元はその要請を断って、翌年永平寺に帰りました。 鎌倉の滞在は、約半年間という短い期間でした。 その後、 時頼 は永平寺への寄進を考え、道元の弟子玄明に「寄進状」を持たせます。 時頼 の寄進状を持ち帰って喜んでいる玄明をみた道元は、玄明を即刻追放したといいます。 また、玄明が坐禅をしていた僧堂の床と、その下の土を捨てさせたともいわれています。 これは、「名誉や地位を求めるという私欲に走ることで、真の仏法をゆがめてしまう」ということを他の修行僧にも教え込むためだったといわれています。 のちに、道元は後嵯峨上皇より、紫の法衣を賜りますが、一生その法衣を纏うことはなかったといいます。 政治権力より仏法を優先した道元らしい話です。 道元 死期の近づいたことを知った道元は・・・ 「仏法を修学して、釈迦のようになり、衆生を救わん」といったといいます。 病の重くなった道元は、 波多野義重 のすすめで京都で療養することになりますが、1253年(建長5年)8月28日入寂しました。 54歳でした。 道元禅師修行の遺蹟 (京都:建仁寺) 道元鎌倉御行化顕彰碑 https://www.yoritomo-japan.com/page041dogen.htm ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

ぼんぼり祭の日程2011

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8月7日から9日まで、 鶴岡八幡宮 で行われる 「ぼんぼり祭」 の日程です。 クリックすると大きくなります。 鶴岡文庫では、 「ぼんぼりに描かれた動物達」をテーマに、 過去に揮毫された「ぼんぼり」が展示されるということです。 昨年の回顧展の様子 ぼんぼり祭記念の団扇 今年は石踊紘一先生の揮毫による団扇です。 ぼんぼり祭 http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/bonborimaturi.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

流鏑馬と熊谷次郎直実の逸話・・・鶴岡八幡宮

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熊谷直実は、武蔵国熊谷郷の武将。 石橋山の合戦 では 源頼朝 に敵対しますが、その後、 頼朝 に仕え、佐竹討伐、 一ノ谷の合戦 で活躍しました。 特に、一ノ谷の合戦では、 源義経 の鵯越に従い、平敦盛を討った武将として知られています。 熊谷直実像 (埼玉県熊谷市) 『吾妻鏡』によれば・・・ 1187年(文治3年)8月4日、 源頼朝 は、 鶴岡八幡宮 の 放生会 で奉納される 流鏑馬 の射手と的立役を指名します。 (※ 鶴岡八幡宮 の 放生会 は、この年から始まったといわれ、 流鏑馬 が奉納されています。) 直実は上手(かみて)の的立役を命ぜられました。 怒った直実は 頼朝 に、 「御家人は皆同輩のはず。 それなのに、射手は騎馬、的立は徒歩。 すでに、勝敗をつけたようなもの。 このような命令に従うことは難しい。」 と申し上げました。 これに対して 頼朝 は、 「この役目は、身の器をわきまえて命じていることである。 勝敗を分けたものではない。 とりわけ、的立役は下職ではない。 新日吉神社に法皇がお越しのときは、 貴族の侍衆が流鏑馬の的を立てられた。 その起源からすれば、まるで射手の役を越えている。 早く役目を受けるように」 と的立役が名誉ある役目であることを説いたといいます。 しかし、直実は承知しなかったので、所領を減封されました。 「一所懸命」の武士の所領を没収するのですから、 頼朝 の怒りも大変なものだったと思われます。 弓の名手であったという直実。 射手をはずされ、的立役に指名されたことは、屈辱的だったのかもしれません。 何より騎馬で登場できず、徒歩というのが不満だったのでしょう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ (流鏑馬に残された逸話) ★ 熊谷直実   ★ 諏訪盛澄   ★ 河村義秀 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 鶴岡八幡宮例大祭 https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/hatiman-reisai.htm 浜降式 神幸

鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬

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1180年(治承4年)10月6日、源氏再興の挙兵をした 源頼朝 が鎌倉に入ります。 頼朝 は直ちに海岸の砂丘にあった 鶴岡若宮(元八幡) を遙拝し、10月12日には現在の地に移しました。 1191年(建久2年)には、大臣山の山腹に本宮を創建し、京都 石清水八幡宮 の祭神を改めて勧請し、現在のような上下両宮の形となっています。 石清水八幡宮 の神霊を迎えるための儀式が、12月に行われている 「御鎮座記念祭」 です。 鶴岡八幡宮 鶴岡八幡宮 の 例大祭 は、旧暦の8月15日に行われ、「放生会」と呼ばれていました。 頼朝 自らが 由比ヶ浜 に赴き、千羽鶴を放生したともいわれています。 神幸祭 (鶴岡八幡宮例大祭) 1187年(文治3年)8月15日、 頼朝 は、 鶴岡八幡宮 で「放生会」を行います。このとき 「流鏑馬」 も奉納されました。 これが 鶴岡八幡宮 の 例大祭 の始まりとなります。 流鏑馬 の起源は古く、『日本書紀』には「馬的射」(うまゆみい)を行ったとあるようです(680年(天武天皇9年))。 この「馬的射」が 「流鏑馬」 の原型といわれています。 流鏑馬 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~頼朝、西行と出会う~ 『吾妻鏡』によると・・・ 流鏑馬 が始められた年の前年8月15日、 鶴岡八幡宮 に参拝した 頼朝 は、鳥居の辺りを徘徊している一人の老僧を見つけます。 梶原景季 に名前を尋ねさせたところ、佐藤兵衛尉義清という元北面の武士で、今は西行と名乗っているとのことでした。 鶴岡八幡宮 奉幣の後、西行を館に招き入れた 頼朝 は、和歌や弓馬のことについて尋ねますが・・・ 西行は、「弓馬のことは、出家する前まではその流派を伝えていましたが、1137年(保延3年)に出家したときに、藤原秀郷以来九代の嫡流家に伝わった兵法は焼いてしまい、罪業の原因ともなりますので心にも留めず、忘れてしまいました。 詠歌については、花月に対して心が動いたときにただ31文字を作るだけで、深く理解しているわけではありません。」 と答えたといいます。 それでも、 頼朝 が再三にわたって尋ねたので、弓馬のことは一晩に亘って語ったといいます。 頼朝 は、藤原俊兼にその口述を記

鳩サブレー~鎌倉の名産品~

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「鳩サブレー」は、豊島屋の初代久保田久次郎が、異人さんからもらったビスケットをヒントに考案したお菓子なのだそうです。 試作品を友人の船長に食べてもらうと・・・ フランスのサブレーという菓子に似ているといわれました。 初代は 鶴岡八幡宮 を崇敬していたといいます。 かねてより 鶴岡八幡宮 の掲額の鳩をモチーフになにか出来ないかと思っていたそうです。 鶴岡八幡宮の掲額 「八」の字が鳩の抱き合わせになっています。 初代は「サブレー」=「三郎」と考えます。 そして、 鶴岡八幡宮 の鳩と合わせて「鳩三郎」としたとか・・・。 鶴岡八幡宮の白鳩 鳩三郎 (鳩サブレーグッズ) 豊島屋菓寮「八十小路」 お茶と菓子をお楽しみください。 鎌倉の産業 https://www.yoritomo-japan.com/page129-4.htm 鎌倉手帳 https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html