1180年(治承4年)10月6日、源氏再興の挙兵をした源頼朝が鎌倉に入ります。
頼朝は直ちに海岸の砂丘にあった鶴岡若宮(元八幡)を遙拝し、10月12日には現在の地に移しました。
1191年(建久2年)には、大臣山の山腹に本宮を創建し、京都石清水八幡宮の祭神を改めて勧請し、現在のような上下両宮の形となっています。
石清水八幡宮の神霊を迎えるための儀式が、12月に行われている「御鎮座記念祭」です。
鶴岡八幡宮の例大祭は、旧暦の8月15日に行われ、「放生会」と呼ばれていました。
頼朝自らが由比ヶ浜に赴き、千羽鶴を放生したともいわれています。
(鶴岡八幡宮例大祭)
1187年(文治3年)8月15日、頼朝は、鶴岡八幡宮で「放生会」を行います。このとき「流鏑馬」も奉納されました。
これが鶴岡八幡宮の例大祭の始まりとなります。
流鏑馬の起源は古く、『日本書紀』には「馬的射」(うまゆみい)を行ったとあるようです(680年(天武天皇9年))。
この「馬的射」が「流鏑馬」の原型といわれています。
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~頼朝、西行と出会う~
『吾妻鏡』によると・・・
流鏑馬が始められた年の前年8月15日、鶴岡八幡宮に参拝した頼朝は、鳥居の辺りを徘徊している一人の老僧を見つけます。
梶原景季に名前を尋ねさせたところ、佐藤兵衛尉義清という元北面の武士で、今は西行と名乗っているとのことでした。
鶴岡八幡宮奉幣の後、西行を館に招き入れた頼朝は、和歌や弓馬のことについて尋ねますが・・・
西行は、「弓馬のことは、出家する前まではその流派を伝えていましたが、1137年(保延3年)に出家したときに、藤原秀郷以来九代の嫡流家に伝わった兵法は焼いてしまい、罪業の原因ともなりますので心にも留めず、忘れてしまいました。
詠歌については、花月に対して心が動いたときにただ31文字を作るだけで、深く理解しているわけではありません。」
と答えたといいます。
それでも、頼朝が再三にわたって尋ねたので、弓馬のことは一晩に亘って語ったといいます。
頼朝は、藤原俊兼にその口述を記録させたそうです。
翌日の正午ごろ、西行は頼朝の館を辞します。
頼朝は、このとき銀で作られた猫を西行に贈りますが、西行は、門の外で遊んでいた子どもたちに玩具として与えてしまいました。
西行は、東大寺復興費用の勧進のため奥州へ向かう途中で鶴岡八幡宮に立ち寄ったのだといいます。
そして、頼朝は、翌年から放生会を始め、流鏑馬を奉納することになります。
(※絵:「西行法師子供に銀猫を与ふるの図」)
~殺生の禁止と放生会~
「放生会」とは、仏教の殺生を禁じる思想に基づくものです。魚や鳥などを山野に放ち、善根(よい報いを招くもととなる行為)を施すという儀式です。
毎年8月15日に行われていた鶴岡八幡宮の放生会では、源平池(放生池)に鯉などを放ち、善業を積むという意味合いが込められていたといいます。
戦によって多くの殺生を行ってきた武士が、その罪をみつめ、悩みながら神仏にすがって生きた様が伝わってきます。
『吾妻鏡』1187年(文治3年)8月1日条によると・・・
8月1日から15日までの間、殺生を禁止することを関東の荘園などには命令していましたが、鎌倉の海、浜、川、溝などでもこれを守らせるよう命を出しています。
~1187年(文治3年)8月15日:放生会~
『吾妻鏡』によると・・・
頼朝は、源範頼、大内義信、加々美遠光、安田義定、伏見広綱、小山朝政、千葉常胤、三浦義澄、八田知家、足立遠元らを供に放生会に御出します。
流鏑馬が奉納され、射手五騎の全てが的中させたといいます。
一番 長江太郎義景 的立 野三刑部丞成綱
二番 伊沢五郎信光 的立 河匂七郎政頼
三番 下河辺庄司行平 的立 勅使河原三郎有直
四番 小山千法師丸 的立 浅羽小三郎行光
五番 三浦平六義村 的立 横地太郎長重
源頼朝が崇敬した鶴岡八幡宮は、武門の篤い信仰を受け「弓矢八幡」ともいわれました。
現在の例大祭は、9月14日、15日、16日の3日間です。
14日には浜降式が、15日には神幸祭が、そして16日には流鏑馬が行われます。