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ニオイバンマツリ~大巧寺・光則寺~

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鎌倉 大巧寺 と 光則寺 のニオイバンマツリです。 芳しい香りのする花で、白から紫に変化していくのだそうです。最盛期には白と紫の二色の花がきれいです。 ~大巧寺~ ~光則寺~ 大巧寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page043daigyoji.htm 光則寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136kosokuji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

光則寺のサラサウツギ

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鎌倉 光則寺 のサラサウツギ(更紗空木)です。 アジサイ科ウツギ属の花です。 光則寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136kosokuji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

光則寺のヤマアジサイ

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鎌倉 光則寺 の境内には、たくさんのヤマアジサイの鉢植えが並べられています。 開山日朗が幽閉されていた土牢石段のアジサイの見頃は、もう少し先のようです。 鎌倉のアジサイ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/ajisai.htm 光則寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page136kosokuji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

建長寺のイワタバコ

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建長寺 の鎮守 半僧坊大権現 への道の途中、 正統院 前の石垣に イワタバコ が咲いていました。 鎌倉のイワタバコ http://www8.plala.or.jp/daisho/kamakura/sizen/iwatabako.htm 建長寺 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/page138kentyoji.htm 鎌倉手帳 http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kamakura.html

保存修理が終わった建長寺の唐門

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建長寺 の唐門(からもん)は 方丈 (龍王殿)の正門です。勅使門ともいわれています。 円覚寺 の 方丈 の正門も唐門ですが、禅宗寺院の方丈に唐門を配置するようになったのは後世のことで、創建当時から唐門だったかどうかは不明とのこと。 唐門というのは、 中国式という意味ではなく、 屋根が唐破風になっている門のことです。 修理前の唐門 (2009/02/03) 関東大震災のときに解体修理を行ってから80余年が経過し、 痛みが進んでいたことから今回の修理となったそうです。 この唐門は、徳川家の菩提寺 増上寺 の 崇源院御霊屋 の中門だったもので、1647年(正保4年)に 仏殿 、 西来庵 中門とともに 建長寺 へ移築されました。 崇源院とは徳川秀忠の夫人のことです。 NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」でも知られるとおり、一般的には「お江」(ごう)と呼ばれ、織田信長の妹お市と近江の戦国大名浅井長政との間に生まれた三姉妹の三女です。 崇源院は、 鶴岡八幡宮 の弁財天を信仰し、徳川幕府三代将軍となる家光を授かったといわれています(参考: 旗上弁財天社 )。 家光の乳母春日局も 鶴岡八幡宮 に参拝しているといいます また、 鶴岡八幡宮 の 一の鳥居 は、崇源院の願いによって建てられたと伝えられています。 全面に飾金具が付けられていた華美な姿が復元されています。 建長寺 https://www.yoritomo-japan.com/page138kentyoji.htm

北条時政という武将

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北条時政 といえば、 源頼朝 の妻 政子 の父であり、頼朝の挙兵を助けた人物として知られています。 『吾妻鏡』では、 「上総介平直方の五代の孫北条四郎時政主は当国の豪傑なり」 と紹介しています。 平直方は、平貞盛につながる人物で、鎌倉に居館を持ち、平忠常の乱後 源頼義 に娘を嫁がせ、 頼義 に鎌倉の地を譲り渡したとされる人物です。 元八幡 (由比若宮) 源頼義 が 石清水八幡宮 を勧請して創建しました。 鎌倉と源氏のつながりは、 頼義 が平直方から、鎌倉の地を譲り受けたことからかじまります。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ しかし、平直方から 北条時政 に至るまでの系図は定かではありません。 したがって北条氏の出自は不明というよりほかありません。 ただ、 時政 の後妻 牧の方 は、平頼盛に仕えた牧宗親の娘といわれています(妹ともいわれています。)。 頼盛は 源頼朝 を助けたという 池禅尼 の子です( 平清盛 の異母弟)。 平氏の関係者から嫁をもらうということで「平氏とはかなり深いつながりがあった」ということは言えるようです。 蛭ヶ小島の源頼朝と政子の像 平治の乱 に敗れた 源頼朝 は伊豆国の 蛭ヶ小島 に流されます。 蛭ヶ小島は 北条時政邸 とそう離れていませんでした。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 1180年(治承4年)、 源頼朝 は挙兵します。 もちろん 北条時政 もそれに従っています。 頼朝の挙兵を助けたことは鎌倉幕府成立にとって大きな力となったでしょう。 ただ、頼朝が鎌倉に入ってからの時政には、歴史上に残る記事が極めて少なく、かなり影のうすい存在だったということがいえるかもしれません。 大きな記事といえば1185年(文治元年)、 守護・地頭の設置 に成功したという事くらいでしょうか・・・。 しかし・・・、 時政は影で「いつか幕府の実権を握ろう」と計画していたのかもしれません。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~曽我兄弟の仇討ち~ 1193年(建久4年)5月28日、 北条時政 の所に出入りしていたという 曽我兄弟 が、 富士の巻狩り のときに 工藤祐経 を殺害するという事件が起きています。 有名な曽我兄弟の仇討ちです(参考: 曽我兄弟の仇討