別冊『鎌倉手帳』

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2011年5月30日月曜日

北条時政という武将



北条時政といえば、源頼朝の妻政子の父であり、頼朝の挙兵を助けた人物として知られています。



『吾妻鏡』では、「上総介平直方の五代の孫北条四郎時政主は当国の豪傑なり」と紹介しています。

平直方は、平貞盛につながる人物で、鎌倉に居館を持ち、平忠常の乱後源頼義に娘を嫁がせ、頼義に鎌倉の地を譲り渡したとされる人物です。


 由比若宮
(由比若宮)

源頼義石清水八幡宮を勧請して創建しました。

鎌倉と源氏のつながりは、頼義が平直方から、鎌倉の地を譲り受けたことからかじまります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

しかし、平直方から北条時政に至るまでの系図は定かではありません。

したがって北条氏の出自は不明というよりほかありません。

ただ、時政の後妻牧の方は、平頼盛に仕えた牧宗親の娘といわれています(妹ともいわれています。)。

頼盛は源頼朝を助けたという池禅尼の子です(平清盛の異母弟)。

平氏の関係者から嫁をもらうということで「平氏とはかなり深いつながりがあった」ということは言えるようです。


 蛭ヶ小島


平治の乱に敗れた源頼朝は伊豆国の蛭ヶ小島に流されます。

蛭ヶ小島は北条時政邸とそう離れていませんでした。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1180年(治承4年)、源頼朝は挙兵します。

もちろん北条時政もそれに従っています。

頼朝の挙兵を助けたことは鎌倉幕府成立にとって大きな力となったでしょう。

ただ、頼朝が鎌倉に入ってからの時政には、歴史上に残る記事が極めて少なく、かなり影のうすい存在だったということがいえるかもしれません。

大きな記事といえば1185年(文治元年)、守護・地頭の設置に成功したという事くらいでしょうか・・・。

しかし・・・、

時政は影で「いつか幕府の実権を握ろう」と計画していたのかもしれません。



~曽我兄弟の仇討ち~

1193年(建久4年)5月28日、北条時政の所に出入りしていたという曽我兄弟が、富士の巻狩りのときに工藤祐経を殺害するという事件が起きています。

有名な曽我兄弟の仇討ちです(参考:曽我兄弟の仇討ち・・・)。

仇討ち成就後、兄の十郎祐成は仁田忠常に討たれますが、弟五郎時致は源頼朝の居所に突進していったといわれています。

「頼朝に恨みを述べてから死ぬつもりだった」というのが理由とされていますが、本当は「頼朝の命を狙った」とする見方も可能です。

時政曽我兄弟を使って頼朝を暗殺しようとしたという推測も十分に成り立ちます。


 曽我兄弟の墓


曽我の里にある城前寺にある兄弟の五輪塔です。

曽我兄弟の仇討ちに関連して、頼朝の弟源範頼が謀叛の疑いをかけられ伊豆に流されるという事件も起こっています。

こちらについては北条政子の陰謀とする説もあるようです(参考:源頼朝の弟範頼)。



~相模川の橋供養~

1199年(正治元年)正月13日、源頼朝が亡くなりました。

前年末の相模川の橋供養の帰路に落馬したことが原因ともいわれていますが、暗殺されたのではないかという説も有力です。

この橋供養は稲毛重成の妻の供養のためのものでした。

稲毛重成の妻というのは、北条時政の娘です。


 旧相模川橋脚


源頼朝が渡り初めをしたという旧相模川の橋脚の遺構です。


なぜ年末に、なぜ一御家人の妻のために・・・という疑問もあるようです。

そして、馬に乗り慣れた武士が落馬して致命傷を負うのかということも疑問です。

参考までに、『吾妻鏡』の記事は、頼朝の死までの三カ年が欠落しています。



~梶原景時の追放~

1200年(正治2年)正月20日、源頼朝が一番気に入っていたという梶原景時が、駿河清見関で在地武士に討たれ最期を遂げました。

景時は、前年、「結城朝光に謀叛の疑いあり」として讒言したことがきっかけとなって御家人66名の弾劾にあい、鎌倉を追放されていました(参考:梶原景時の変)。


 梶原景時の墓


この事件に関わっているのが北条時政の娘阿波局です。

阿波局は結城朝光に景時の讒言を密告しています。

『吾妻鏡』の記事では、時政は景時の弾劾に加わっていないようですが、裏で糸を引いていたのは時政であったと推測することは可能です。

阿波局はのちに三代将軍となる源実朝の乳母を務めていました。

また、景時が最期を遂げた駿河国の守護は時政だったといいます。

これから数年間で発生する事件を考えてみれば、実朝を将軍にするために、まずは景時が狙われたと考えてもおかしいことではありません。

景時は将軍源頼家の乳母夫で、頼家にとってはなくてはならない人物だったと思われます。


~阿野全成の誅殺~

阿波局の夫は源頼朝の弟阿野全成です。

1203年(建仁3年)5月19日、全成は謀叛の罪で捕らえられ、常陸国に流された後、殺害されました(参考:阿野全成の誅殺)。

将軍源頼家は、阿波局の引き渡しも求めたそうですが、北条政子が渡さなかったといいます。


 阿野全成の墓
(沼津市・大泉寺)


~比企能員の暗殺~

阿野全成が誅殺されてから約3ヶ月後の9月2日、北条時政は比企能員を自邸に招いて殺害しています。

さらに、北条義時らが比企一族と将軍源頼家の嫡子一幡を襲い滅ぼしています。

能員も頼家の乳母夫でした(参考:比企の乱)。


 比企一族の墓
(妙本寺)


『吾妻鏡』には、「比企能員が将軍頼家と密かに北条氏討伐のはかりごとをめぐらしているのを、北条政子が聞いていた」と説明しているようですが・・・

どうなのでしょうか?


~頼家の追放~

9月7日、源頼家は将軍の座を追われ、伊豆修禅寺に流されます。

そして、翌年、暗殺されました。


(伊豆:修禅寺)


~牧の方の陰謀~

源頼朝亡き後、源実朝を将軍とする計画を密かに進め、見事に幕府の実権を握った北条時政でしたが、何を考えたのか、後妻牧の方の娘婿の平賀朝雅を将軍にしようと思い始めます。

それを知った北条政子は弟義時とともに、時政を鎌倉から追放します。

そして、京都守護だった平賀朝雅には、討手を派遣し殺害しています。

『吾妻鏡』には、「阿波局が時政の様子を政子に知らせた」と記されているようです。

この間、有力御家人畠山重忠・重保の父子が時政の謀略によって殺害されています(参考:畠山重忠の乱)。


 北条時政の墓
(伊豆の国市:願成就院)


鎌倉を追放され伊豆に流された北条時政

伊豆の何処でどのように暮らしたのかは定かではありませんが、1215年(建保3年)に北条の地で亡くなったと伝えられています。


伊豆の一豪族に過ぎなかったと思われる北条時政は、時勢を受け止め、平氏に反旗を翻しことは、「ただ者ではない」ということでしょうが、かなりの「曲者」であったことも確かです。


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