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源頼朝の創建した寺社~鎌倉その他~

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鶴岡八幡宮 1180年(治承4年)、鎌倉入りした 源頼朝 が最初に行ったことは、 由比若宮 を現在地に遷座することでした。 https://www.yoritomo-japan.com/page041hatiman.htm 補陀洛寺 1181年(養和元年)、 源頼朝 の祈願所として創建されます。 開山は怪僧といわれた 文覚 。 https://www.yoritomo-japan.com/page135fudarakuji.htm 江島神社辺津宮の泰安殿 1182年(寿永元年)、奥州藤原秀衡調伏のため、 文覚 に命じて江の島に弁財天を勧請します。 https://www.yoritomo-japan.com/enosima.htm 勝長寿院跡 1185年(文治元年)、 父 義朝 の菩提を弔うために勝長寿院を建立します。 https://www.yoritomo-japan.com/page042shotyojyuin.htm 銭洗弁財天宇賀福神社 「巳の年」である1185年(文治元年)の「巳の月」の「巳の日」の 夢のお告げによって、建立されました。 https://www.yoritomo-japan.com/page137zeniaraibenten.htm 法華堂跡 1189年(文治5年)、 大倉幕府 の背後に持仏堂が建てられます。 頼朝 の死後、法華堂と称されました。 https://www.yoritomo-japan.com/page041hokedoato.htm 白山神社 1191年(建久2年)、 頼朝 が京の 鞍馬寺 で賜った毘沙門天像を祀った毘沙門堂が、 そのはじまりと伝えられている神社です。 https://www.yoritomo-japan.com/page140hakusan.htm 永福寺跡 1192年(建久3年)、 弟 義経 と奥州藤原氏の霊魂を鎮めるために建立されたと伝えられています。 https://www.yoritomo-japan.com/page042yofukuji.htm 佐助稲荷神社 蛭ヶ小島 にいた頃、 夢に現れた「かくれ里

怪僧文覚と源頼朝~鎌倉:人物と歴史~

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文覚 という僧侶は、実在した人物ですが、かなり伝説的な人物として歴史上の各所に登場しています。 文覚 は、もとは遠藤盛遠という北面の武士でしたが、19歳のときに突然出家します。 その理由は・・・ 盛遠は、渡辺渡の妻 袈裟御前 に懸想します。 言い寄られて困った袈裟御前は、 「夫の寝所を盛遠に教えて、これを討つように促すと、自分が身代わりとなって殺された」 という話が残されています。 つまり、袈裟御前を殺してしまったことが出家の理由ということのようです。 ~文覚の荒行~ 『平家物語』には・・・ 「藪の中で、あぶ・蚊などの毒虫に刺されながら8日間過ごした」とか、 「厳寒の中、那智の滝に打たれ息絶えてしまうが、天から降りてきた童子に助けられた」 という 文覚 の荒行の様子が描かれています。 文覚荒行像 (成就院・模造) ~源頼朝と文覚の出会い~ 全国で修行を積んで京に戻った 文覚 は、京都 高尾山 で修行を続けていました。 荒れ果てていた 神護寺 の再興を思い立ちますが、 後白河法皇 に強訴したことにより伊豆国へ流されます。 そのとき、伊豆国の 蛭ヶ小島 には源氏の嫡流 源頼朝 が流されていました。 文覚は、その 蛭ヶ小島 からそう遠くない奈古谷に庵を結んだと伝えられています。 毘沙門堂 伊豆の国市奈古谷の 毘沙門堂 は、伊豆に流された文覚が住んでいた場所と伝えられています。 文覚 が伊豆国に流されたのは、1173年(承安3年)のことで、 文覚 は34歳、 頼朝 は26歳のときでした。 ~伝説!頼朝の挙兵と文覚~ 文覚 との出会いからおよそ7年後、 頼朝 は源氏再興の挙兵をします。 文覚 はその前に赦免されていますので、頼朝挙兵の際に伊豆にいたかどうかは不明です。 『平家物語』では・・・ 文覚 は、謀叛を起こして全国を従えるように 頼朝 を促します。 一方、 頼朝 は 「今は朝敵となっている身だから、それが許されなければ謀叛などできない」 ことを告げます。 すると 文覚 は、 「後白河法皇から院宣を給わり、頼朝のもとに持ってきた」 と伝えられています。 そして、 頼朝 はこの院宣を掲げて挙兵したと伝えていますが、実際は、以仁王の令旨を掲

上杉禅秀の乱と遊行寺の敵御方供養塔

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遊行寺 にある「敵御方供養塔」は、1416年(応永23年)に起こった 上杉禅秀の乱 で戦死した者を供養するために建立されました。 上杉禅秀の乱 というのは、関東管領だった犬懸上杉家の禅秀(氏憲)による鎌倉公方 足利持氏 に対する反乱です。 敵御方供養塔 銘文には・・・ 南無阿弥陀佛 応永23年10月6日より兵乱、同24年に至る。 在々所々において、 敵御方箭刀水火のために落命せる人畜の亡魂、 皆悉く浄土に往生せしめん故なり。 この塔婆の前を通る僧も俗人も十念あるべき者なり。 応永25年10月6日 と記されています。 造立者は、ときの住職、太空上人と考えられています。 銘文にあるように、敵・味方の関係なく、軍馬の供養もしていることから、「平等供養塔」とも呼ばれています。 大正15年10月20日に国の史跡に指定されました。 上杉禅秀邸跡碑 (鎌倉) 遊行寺 https://www.yoritomo-japan.com/yugyoji.htm

時宗総本山清浄光寺(遊行寺:藤沢)

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藤沢の 遊行寺 は、1325年(正中2年)に創建された時宗の総本山です。開山は呑海、開基は俣野五郎景平と伝えられています。 正式名称は、藤沢山無量光院清浄光寺ですが、「遊行上人のおわす寺」ということで 「遊行寺」 という名称で親しまれてきました。 遊行寺橋 旧東海道からこの橋を渡ると 遊行寺 の入口です。 江戸時代、藤沢は東海道の六番目の宿場町として栄え、 江の島 詣の客などで賑わいました。 遊行寺 はその中心地にありました。 この遊行寺橋は、旧東海道が境川を渡るところに架けられた橋です。 現在の橋は昭和35年に架けられたもので、 「かながわの橋100選」に指定されています。 遊行寺橋は、安藤広重の絵にも描かれています。 手前の鳥居は、 江の島 道の始点に建てられていたもので、 遊行寺橋の手前にあったそうです。 こうした風景が浮世絵によく描かれたそうです。 冠木門 遊行寺橋を渡ると黒門です。 日本三大黒門と呼ばれるそうですが、他の二つは不明です。 黒門の先は「いろは坂」です。 弥陀の四十八願になぞられて造られた坂といわれています。 本 堂 本堂は、東海道随一といわれる木造建築です。 中雀門 放生池 俣野大権現 開基俣野五郎景平が祀られています。 開山の呑海は、景平の弟といわれています。 呑海が廃寺となっていた極楽寺に住んだことが、遊行寺のはじまりとなります。 梵鐘 神奈川県の重要文化財に指定されている銅鐘です。 1356年(延文元年)の鋳造で藤沢市最古のものです。 敵御方供養塔 上杉禅秀の乱 で戦死した者の供養塔です。 銘文には、戦没した敵味方、軍馬の亡魂を弔ったもので、 1418年(応永25)に建立されたもので、国の指定史跡です。 参考: http://okadosblog.blogspot.com/2010/12/blog-post_8638.html 一遍上人像 時宗の開祖は一遍です。 「決定往生六十万人」と書かれた札を配って各地を遊行しました。 この札は「賦算札」と呼ばれています。 「南無阿弥陀仏決定往生六十万人」 (