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星の井通り(坂ノ下海岸~御霊神社~星ノ井(虚空蔵堂))

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坂の下の海岸から 御霊神社 を通って 星ノ井 ( 虚空蔵堂 )へと続く道です。 昔の名称はどのようなものであったかわかりませんが、御霊神社や星ノ井・虚空蔵堂の歴史からすると古くからの道であることは確かです。 極楽寺切通 ができる前の稲村路とも重なっている道なのかもしれません。 稲瀬川の石碑 https://www.yoritomo-japan.com/page136inasegawa.htm 由比ヶ浜 へと流れる 稲瀬川 は、万葉集にも詠まれた川といわれています。 源頼朝 が鎌倉に入った頃は、ここが鎌倉の西の境だったと考えられています。 国道134号線の交差点 稲瀬川の石碑 からすぐのV字の交差点。 国道沿いに進めば、 霊山ヶ崎 の埋立地を通って 稲村ヶ崎 に到達します。 右の細い道は、 御霊神社 ・ 星ノ井 ・ 虚空蔵堂 を経て 極楽寺切通 に通ずる道です。 (※右の道は一方通行の出口です。) 大太刀稲荷神社 V字の交差点にある稲荷神社。 大太刀稲荷神社ということのみで詳しい由緒等が不明です。 庚申塚 古くからの道であることを物語っています。 この交差点を右に行くと・・・ 江ノ電長谷駅 ・ 収玄寺 ・ 長谷寺 ・ 鎌倉大仏 方面です。 かなり分かりづらい場所にある稲荷社。 海が見える稲荷社です。 名前も由緒も不明ですが、 漁村らしい景色が味わえる稲荷社です。 星の井通りの交差点 ここから見える海がなんともいえません。 御霊神社の入口 力餅家は江戸時代から続く老舗です。 名物は「権五郎力餅」。 https://www.yoritomo-japan.com/sangyo/tikaramoti.htm 力餅家の権五郎力餅と福面まんじゅう (okadoのブログ) https://okadosblog.blogspot.com/2011/01/blog-post_6036.html 御霊神社 https://www.yoritomo-japan.com/page136gorei.htm 鎌倉権五郎景政を祭神とした神社です。 景政は後三年の役での武功が知られています。 「権五郎神社」とも呼ばれ親しまれている

武蔵大路の散策(赤橋~亀ヶ谷(扇ヶ谷)~仮粧坂)

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武蔵大路は、武蔵国に通ずる重要な交通路として『吾妻鏡』にも登場する道です。 鶴岡八幡宮 の 赤橋(太鼓橋) から、亀ヶ谷、 仮粧坂 を経て武蔵国へと向かうための道と考えられています。 鶴岡八幡宮三の鳥居前 赤橋(太鼓橋) が起点とされていますが、現在、 太鼓橋 の前には三の鳥居があります。 ~参考~ 鶴岡文庫の模型 鶴岡文庫に展示されている 鶴岡八幡宮 の模型では、 太鼓橋 の後ろに鳥居が建てられています。 この鳥居が現在の三の鳥居なのでしょうか・・・。 鉄ノ井 鎌倉十井 の一つ。 「鉄観音像」の伝説が残され、江戸時代までは井戸の前にあった鉄観音堂に、井戸から掘り出された観音像(頭)が安置されていました。 明治の神仏分離によって観音堂は廃止され、観音像は東京人形町の 大観音寺 に安置されています。 窟小路 鉄ノ井 から鎌倉駅方面に進み、窟小路へと入ります。 この標識では、 川喜多映画記念館 の方角です。 窟 堂 源頼朝 が鎌倉入りする前からあったといわれています。 明治まで 頼朝 が信仰したという地蔵像が安置された松源寺に管理されていました。 松源寺は神仏分離により廃寺となっています。 地蔵像は「日金地蔵」と呼ばれ、現在は横須賀の 東漸寺 に安置されています。 壽福寺 鎌倉五山 第三位の寺。 我が国 臨済宗 の開祖栄西を開山に迎え、 北条政子 が建立したと伝えられています。 今小路 は、門前の 勝ノ橋 が起点とされていますが、古くは武蔵大路から続く道です。 英勝寺 戦国武将 太田道灌 の旧跡に建てられました。 英勝寺 を建立した英勝院は、太田道灌の子孫にあたります。 徳川家康の側室として知られ「お勝の局」と呼ばれていました。 壽福寺 門前にあったという 勝ノ橋 は、英勝院が架けたともいわれています。 阿仏尼墓 英勝寺 の少し先、JR横須賀線沿いの「やぐら」は、『十六夜日記』を著した阿仏尼の墓と伝えられています。 稲荷社 阿仏尼墓(やぐら)のすぐ隣には、廃寺となった智岸寺のものと伝えられる稲荷社があります。 英勝寺 が建立される前まで、この辺りには智岸寺という尼寺がありました。 智岸寺には 東慶寺

小町大路の散策(大町四ツ角~材木座)

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=小町大路の散策(後編)= ~大町四ツ角から材木座~ 大町四ツ角付近は商業材の中心地として栄えた所で、魚・米・炭の業者などの多くの商人が集まっていたものと考えられています。 材木座は、築港「和賀江嶋」を中心に栄えた街で、材木を扱う「座」(商工業者の組合)が設けられたことで付けられた地名だといわれています。 源頼朝が 鶴岡八幡宮 を創建する際に、使用する材木を陸揚げしたのが 材木座海岸 だといわれ、陸揚げの際に歌われたのが「天王唄」だと伝えられています。 参考: 手斧始式:鶴岡八幡宮 魚町橋 「魚町」は、「いおまち」と読みます。 鎌倉幕府が行った商人政策に「小町屋の指定」があります。 鎌倉の街が発展するに連れて商人も増加し、小町屋が各所に広がってしまいます。 これによって、商業区域を設ける必要が生じてきました。 幕府は商人の数を限定し、商売のできる地域を定めるようになります。 1265年(文永2年)の法令では、 大町・小町・魚町・穀町・武蔵大路下・須地賀江橋・大倉辻が指定されました。 参考: 商人関する法令 (※小町屋というのは「小さな屋台」(掘立小屋)のようなものだったようです。) 「魚町橋」は江戸時代の絵図にも描かれています。 魚町橋の横には「町屋址」の石碑も建てられています。 参考: 魚町橋と町屋址 町屋址碑 逆川橋 魚町橋 からすぐの路地を入ると「逆川橋」。 鎌倉十橋 の一つです。 下を流れる川が 「この辺りだけ海岸方面から山の方角に流れている」 ことから名付けられました。 流れている川の名も「逆川」です。 https://www.yoritomo-japan.com/page135sakasakawa-hasi.htm 本興寺 「辻の本興寺」とも呼ばれる日蓮宗の寺です。 https://www.yoritomo-japan.com/page135honkoji.htm 辻説法跡碑 本興寺 の辺りも「 日蓮 の辻説法」が行われた場所であると伝わっています。 (参  考) 日蓮上人辻説法跡(小町) ~鎌倉手帳~ 小町大路の散策(筋違橋~大町四ツ角)