別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年12月7日水曜日

御家人たちの前で演説した北条政子(承久記)~承久の乱~




『吾妻鏡』では、北条義時追討の宣旨が鎌倉に届くと、北条政子は動揺する御家人に対し、安達景盛に代読させて源頼朝の恩顧を訴えたことになっていますが・・・


慈光寺本『承久記』によると・・・

後鳥羽上皇武田信光小笠原長清小山朝政宇都宮頼綱・長沼宗政・足利義氏・北条時房三浦義村に北条義時追討の院宣を下したことを知った政子は、こう演説したのだといいます。


「皆よく聞きなさい。

私ほど若いころから物思いの絶えない者はいません。

姫御前(長女の大姫)・大将殿(源頼朝)・左衛門督殿(長男の頼家)・右大臣殿(次男の実朝)に先立たれ、四度もの辛い思いをしてきました。

今度、権大夫(弟の義時)が討たれることとなれば、五度目の悲しみを味わうことになってしまいます。

「女人五障」とはこの事なのでしょうか。

皆は、降る日も照る日も都での内裏大番を三年間務め、おおきな負担を強いられてきました。

それを右大臣殿(実朝)が朝廷と交渉して軽くしてくれました。

今、皆が京方について鎌倉を攻めることは、大将殿(頼朝)と右大臣殿(実朝)の御墓所を馬の蹄に蹴らせるようなもの。

御恩を受けた者がすることではありません。

私が深山に隠棲して、流す涙のを不憫とは思いませんか。

皆、京方につくか、鎌倉方につくか、有りのままに仰せられよ」


この演説で、武田信光が鎌倉に味方することを表明すると、異議を唱える者はなかったのだといいます。




承久の乱

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