別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年9月19日月曜日

畠山重忠終焉の地




1205年(元久2年)6月22日、畠山重忠北条時政の謀略により二俣川で討たれました。

横浜市旭区内には、重忠ゆかりの史跡が多く残されています。






愛甲季隆の矢に当たって最期を遂げたという重忠

首塚は、重忠の首が祀られた場所と伝えられています。




首塚の近くには首洗い井戸もあったようですが、今はありません。



この辺りには、北条軍の射た無数の矢が落下し、矢の畑のようだったのだといいます。



清来寺は、重忠の武勇を讃える絵巻が伝えられている寺。




薬王寺重忠の霊堂。


(薬王寺)

六ッ塚は、重忠をはじめとする一族郎党134騎が葬られたという六つの塚。



すずり石水は、重忠が布陣した際に墨をすったという湧水。



駕籠塚は、重忠の内室といわれる菊の前の墓所。

菊の前は、戦場に駆け付けましたが、重忠が討たれたことを知って自害したのだといいます。





重忠の功績を讃える碑。




『吾妻鏡』によると、北条時政から畠山謀反の話を聞かされた北条義時北条時房は、

畠山重忠は治承4年の源頼朝様の挙兵以来、忠義を尽くしています。

源頼朝様もその志を鑑みて、息子らを守護するよう丁寧に頼んでいます。

とりわけ、源頼家様の味方だったにも関わらず、比企能員との戦い(比企能員の変)では我々に味方して忠義を尽くしてくれたのは、親子の義理を重んじたからです(重忠の正室は時政の娘)。

それなのに何を理由に謀反を企てるのでしょうか・・・

もし、重忠の度々の勲功を無視して征伐すれば後悔することになります。

事の真偽を確認してからでも遅くはありません」

と主張。

時政は何も言えずに席を立ったのだといいます。

その後、牧の方の使いで北条義時館にやってきた牧時親は、牧の方の伝言を伝えます。

畠山重忠の謀反はすでに明白。

将軍のため、世のために時政殿が伝えたにもかかわず、貴殿が申されることは、重忠に代わって悪だくみをごまかそうとしている。

私が継母だから讒言者にしようというのか・・・」

これによって義時は考え直すことにしたようです。

そして6月22日、重忠が鎌倉へ向かっているとの噂が流れると、その途上で誅殺するよう命令が下り、義時らが出陣。

重忠は愛甲季隆の放った矢に討たれました。

鎌倉に帰った義時時政

「重忠の弟や親類は他所へ赴いていた。

従っていたのは僅かに百騎ほど。

重忠が謀反を企てたというのは虚言である。

讒訴によって征伐されたのでは不便極まりない。

首実検で重忠を見たとき、涙を止めることができなかった」

と報告すると、時政は何も言えなかったそうです。

それから2か月後の閏7月19日、時政牧の方の謀反が発覚(牧氏の変)。

時政は伊豆へ追放されています。



畠山重忠の乱


鎌倉武士の鑑
畠山重忠










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北条時政

北条義時


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鎌倉殿の13人


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