※太字は鎌倉検定の問題文より。
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現在では鎌倉唯一の尼寺となった英勝寺は、代々水戸徳川家の姫君が住職を務めたため、水戸御殿と呼ばれていました。
ただ・・・
六代の清吟尼を最後に水戸家からの住持は絶え、徳川家の支援によって維持されていたのだといいます。
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2013年(平成25年)、境内の仏殿・山門・鐘楼・祠堂・祠堂門を1件として、国の重要文化財に指定されました。
讃岐高松藩主松平頼重(徳川光圀の兄)によって建立されました。
寛永20年銘(銘文:林道春)の梵鐘が吊るされています。
本尊は徳川家光の寄進で運慶作と伝わる阿弥陀如来。
英勝寺の開基・英勝院の位牌を安置する堂(徳川光圀建立)。
祠堂の門(徳川光圀建立)。
竹林がある場所には、代々の住職を勤めた水戸徳川家の姫君の住まいがありました。
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(鎌倉歴史文化交流館)
1674年(延宝2)、徳川光圀一行は、上総から船で金沢に渡って、旧金沢文庫が収められているという称名寺などに立ち寄ってから、鎌倉七口のひとつ朝夷奈切通を経て鎌倉に入って、水戸藩ゆかりの英勝寺に宿泊して各所を巡見した。
『新編鎌倉志』は、徳川光圀が家臣に編纂させた鎌倉の地誌で、このときの旅を基に編纂されました(1685年(貞享2年)刊行)。
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覚園寺の太郎庵と英勝寺の侘助は、鎌倉市の天然記念物のツバキ。
扇谷上杉氏に仕えた武将太田道灌は、雨に降られて農家に立ち寄り、蓑(雨具)を借りようとして、農家の娘が差し出すヤマブキの花の意味が分からず憮然として帰ったが、後に、娘が「七重八重花は咲けども山吹の実のひとつだになきぞ悲しき」という和歌にことよせて農家の貧しさを奥ゆかしく告げるものであったと知る。
その後、自分の教養のなさを恥じて、和歌の道にも親しんだという。
太田道灌の旧居跡にその子孫が建立した尼寺英勝寺の本堂脇には、この故事にちなみヤマブキが今も植えられている。
英勝寺は戦国武将・太田道灌の旧蹟に建てられた尼寺。
開基の英勝院は太田道灌の子孫だといわれています。
(参考)
(伊勢原市)
英勝寺境内MAP
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