京の白拍子だった静御前。
伝説によると・・・
1182年(寿永元年)、後白河法皇は、神泉苑に白拍子100人を呼んで「雨乞いの舞」を舞わせます。
99人までが舞っても雨は降りませんでしたが、100人目の静が舞うと3日間雨が降り続いたのだとか。
その後、「住吉での雨乞い」の際に源義経に気に入られ妾となったのだと伝えられています。
(京都)
源頼朝と不仲となった義経が都を落ちるときも行動を共にしていました。
義経一行は九州へ渡るため摂津国の大物浦から船出しますが難破。
わずかな郎党と静を連れて吉野山に身を隠しますが・・・
義経と静は吉野山で別れます。
その後、蔵王堂に辿り着いたところを捕らえられ、1186年(文治2年)3月1日、母の磯禅師とともに鎌倉へ送られてきました。
安達新三郎清経邸が宿舎とされたといいます。
そして、頼朝から鶴岡八幡宮で舞うように命じられたのは4月8日の灌仏会のときでした。
一説によると、頼朝の誕生日も4月8日なのだとか・・・
吉野山 峰の白雪 ふみわけて入りにし人の 跡ぞ恋しき
(吉野山の白雪を踏み分けて消えていったあの人が恋しい。)
しづやしづ しづのをだまき くり返し昔を今に なすよしもがな
(静、静と繰り返し私の名を呼んだあの人の輝かしかった頃にもう一度戻りたい。)
その後も静は鎌倉に留め置かれました。
義経の子を身籠もっていたからです。
『吾妻鏡』によれば・・・
頼朝の娘大姫の求めによって勝長寿院でも舞っています。
大姫は、婿の木曽義高が殺されて以来、体調が優れず、勝長寿院に参籠して病気回復祈願をしていました。
7月29日、静は安達新三郎の家で男子を出産します。
生まれてくるのが女子であれば命は助けられたのでしょうが、男子の場合は将来に憂いを残すので殺される運命にありました。
頼朝は、新三郎に生まれた赤子を由比ヶ浜に捨てるように命じます。
新三郎は静から赤子を受け取ろうとしますが・・・
静は赤子を衣に包んで抱き伏せながら泣き続けたといいます。
しかし、助命の願いは叶わず、ついに磯禅師が静から赤子を押し取り、新三郎に渡してしまいます。
これを聞いた北条政子も頼朝に助命を願いますが聞き入れられず、生まれたばかりの赤子はで殺されました。
「誕生したばかりなのに生きることが許されない」
母が義経の妾だった故の運命でした。
平清盛に助命されたおかげで、源氏再興の願いを叶えた頼朝ですので、その仲が修復不可能となった義経の子を生かしておくわけにはいかなかったのでしょう。
その後、傷心の静は鎌倉を発ちますが、その行方は不明です。
一説によると、義経を慕って奥州へ下る途中で義経が亡くなったのを知り、自らも命を絶ったのだといいます。
福島県郡山市は静の終焉の地といわれ、「静桜」は静が義経の菩提を弔うために植えたものと伝えられています。
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